「半径5メートル」
カテゴリ:日記

 

『君繋ファイブエム』というアルバムをリリースしてから随分たったけれども、このところ、このアルバムで掲げた「半径5メートル」について考えている。まあ、当時考えていたことは、例えばインターネットの登場が代表するような情報化社会の中で、それぞれの「半径5メートル」が無茶苦茶になってしまうんではなかろうか、ということだった。ひとまずはその「半径5メートル」をしっかりと知覚したり把握したり整理しないとどうにかなってしまうんじゃないか、っていう危機感を反映させてのタイトルだった。コンフリクトして固まらずに現実と接続するための「半径5メートル」についてのアルバムだとも言える。で、まあ、そうして「半径5メートル」のことをチクチクと歌てみたらば存外にグズグズとモヤモヤの塊みたいな歌ばかりになってしまって、丸ごと焦燥感の膜で包んだようなアルバムに出来上がった。どこか青くて切ない、デビュー時にしかできないだろうフィーリングのアルバムだと思う。結成から1stアルバムまでの、7年もの不遇時代がそうさせたのかもしれない。

 

 そして、まあ、この「半径5メートル」というキーワードが誤解されて、同時に「君」とか「僕」とかいう二人称が当時のサブカルチャーのブームにひっくるめられて、「セカイ系」みたいな誤読をされて当時は心底気持ちが悪かった。軽く精神が溶解するくらいに今でも嫌なのだけど、俺の曲には「僕ら」っていう主語も出てくるように、「君と僕」というのが文字通りの特定されたオレとオマエ、そういう閉じた関係性を表しているんではなくて、読み手や聴き手に呼びかけるような広い意味での「君」なのだけれども、そこのところを誤読されて、「半径5メートル」の中にはオレとオマエ的な「君と僕」だけ、醸造エタノールの廉価な焼酎を友人と飲む余裕もないくらいに閉じた、オレとオマエと大五郎よりも狭い「セカイ」であるみたいな解釈をされてしまった。「ループ&ループ」のどこがセカイ系なのよと俺は思うのだけれども、「リライト」だって著作権の歌ではないか、と思うのだけれども...。まあ、随分と俺が分かりづらい書き方をしたのかもしれない。

 

 

 ほいで、まあ、『ファンクラブ』を経て『ワールドワールドワールド』では、かなり社会的な歌詞が増えたと思う。「センスレス」や「ブラックアウト」では、これまで歌ってきたことを書き広げることができた。これは単純にスキルの問題だった。この頃の曲では、自分の身の回りに起きたことを「半径5メートル」からセパレートしない、それをやっちゃうとマズイよ、ということが書いてある。『ワールドワールドワールド』に関して言えば『〜セカイ系ちゃうわ〜』というサブタイトルがつきそうな勢いの作品だと思う。反戦的な内容が歌詞の中にも多い。というか、俺は反戦アルバムだと思っている。けれども、まあ、それはあまり広く理解されていないような気がする。憲法のことも、アメリカのことも、センシティブなことも、ナイーブなことも歌っている。「それでも僕は行こう」とも歌っている。

 

『サーフブンガクカマクラ』は青春小説のような作品だった。それを経て、もう少し違った角度からも歌詞が書けるようになって、その技術を使って『マジックディスク』を作った。「新世紀のラブソング」は自分にとってもメルクマールと呼べる作品だと思う。「なんも答えを言っていない」みたいな評もあったけれども、俺にとって詩作とは「問いかけ」であるので、答えなんか書いてあるかボケ!と全作品について思っている。俺が作っている表現というのはそういうものだ。ポップミュージックに何かについての回答など載っているわけがない。聴いたり読んだりした後で、受け手のパースペクティブが変わっている、そういうものでありたい。あるいは、諸々丸抱えでギャー!!、みたいなプリミティブなものだっていいじゃないかと思う。『マジックディスク』では、それまで書いたことのなかった性的なこともテーマにしたり、とにかく全方位に向けて書いた作品で、うまくいったものもあれば、ちょっと物足りなく感じるものもあった。

 

 そして『ランドマーク』。これは震災後のアルバムで、当時ほとんどまともに機能していなかった自分のバンドが、アルバムを製作しながら復興していくような作品だった。この時代を書き留めようという気概にあふれているけれど、同時にもっとも言葉遊びの多いアルバムでもある。様々な社会的な問題を前に、ロックンロールはそれでもオールライト!(大丈夫)と歌うのだという作品。でも確かに、ちょっと重めな印象を持たれるのは仕方ないと思う。逆に、現実にコミットしないで作るということは無理だった。本来ならば、言葉遊びに特化した、「抽象的だけれども発語すると気持ち良い日本語」みたいな作風に向かっていく予定だったけれども、呑気に言葉やメロディ、押韻と戯れていられるような状況ではなかった。

 

「復活祭」から始まる『Wonder Future』は、本当に復活を告げるような作品だと思う。全てをひっくるめて、常温というか基礎体温みたいな温度で「半径5メートル」を捉え直した作品。俺の「半径5メートル」から見える景色や現実を、別の風景に喩え直して、架空の街/舞台を立ち上げた。そして、最後の「オペラグラス」で回収している。そういうアルバムだ。自分でもびっくりするくらいに最初の頃とテーマが通じている。が、今のほうが「半径5メートル」について、上手に書けている。そして、その外側についてもよく書けていると思う。当時みたいな甘苦い感じはないけれど、40手前で青春っぽい雰囲気が出たら逆に変だと思う。そういう曲はいつだって、青春の真っ只中にいる誰かが書いているのだから、オッサンに求められても困る。

 

 と、長々前振りを書いてきて、長えなぁとか自分でも思いつつ、上記のような俺の意とは反して、「半径5メートル」という言葉が語られる場合、2000年代の呪いにでもかかったように「君と僕」のような閉じた世界観、心象風景オンリー、というか内面世界をこじくりまわしたようなものが求められているように感じる。ひどく逃避的というか。それが、「ここではないどこか」へ逃げ込むというよりは、ひどく閉じた内面世界の、ネガティブな心象を共有し合うことが逃避として働くような、そんな印象。メンタル鎖国って感じ。そして、鎮静剤もしくは代弁者であってくれというような、あるいは何らかの「都合の良い装置」であって欲しいというような願望をいろいろな場所で感じる。もちろん、お金を払ったぶんだけ慰めてくれるような装置にはなれないのだけど。

 

 俺の「半径5メートル」は間違いなくその先に広がったダダっ広い世界というか宇宙というか正体不明の何かというか、なんでもかんでもと繋がっていて、あるいは繋がっていないけれど切り離されていない、ということを前提に、ずっと書き続けられている。山ちゃんは「意味がわからんしヘンテコであるからしてこんなタイトルは承服できない」と当時は怒って帰ってしまったけれども、『君繋ファイブエム』っていうよくわからん造語に込めた意味や意図や意思と、今の俺の詩作は地続きなのだ。僕と君が暮らすこの社会とも、もちろん切り離すことができるはずがない。

 

 いろいろなことが変わり続けているけれども、まったくその延長線上を歩んでいる。誇らしい。ぜ。

2015-10-06 1444103833
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