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「大阪都構想」の住民投票。否決。住民がこうして、自分たちの住んでいる町の行き先について直接的に問われることって、ありそうでなかった。そういう意味では、とても意義のある機会だったんだろうと、大阪の友人などと話して実感する。一方で、運営にかかった費用を考えると、高いコストでもあったんじゃないかと思う。
はっきり言えば、こういった大きな決断が一発の投票で決まるのは、あんまりよくない。なぜかっていうと、こういうふうにドラスティックな状況にならないように、普段から議会があって、議員を選ぶ選挙があるからだ。なるべく多くの立場のひとの意見を反映させる議会があって、その場で、細かく脱皮を繰り返すように、政治ってのはよりよく改善されていくべきなのだ。そっちのほうが、急な生活の変化を強いられるひとが少ないから、だ。保守ってのはそういうことで、政治ってのは保守的なほうが安定的だ。でも、みんな「改革」みたいな言葉が好きなんだなと思う。「ぶっ壊す!」みたいな言葉に手繰り寄せられてしまう。まあ、自分の普段の閉塞感の打破をそこに重ね合わせてしまうからだけれども。
もっとも、大きなチェンジを成し遂げるのに、性急な必要はどこにあるのだろうと思う。暮らすってこと自体は、なんかこう、こういうドラマティックな一回こっきりの大決断ではない。映画のハッピーエンドみたいに終わらないというか、素敵な出会いを描いたラストシーンで映画の幕は閉じても、生活ってのはその後がある。当たり前だよね。だから、なんか、投票して、結果がわかって、「ダメだったから辞めます」みたいな考え方は率直によく分からない。信念があり、必要を感じるのであるならば、時間をかけてでも進めるべきだし、否決された理由になっている懸案をカスタマイズして、もう一度提案すればいいではないか、と思う。スイッチひとつで電気が点くようなものではなくて、ギターアンプのボリュームをゆっくりあげていくことに似たものでしょう。実際、5と6のメモリの間には、これといって5.5みたいな場所はない。パキっと、5と6の真ん中ってないのだ。デジタルではなくて、アナログってことだね。
普段からの積み重ねはとても大切だと思う。そうしないと、ある日突然に答え合わせの機会がやってきて、追い詰められてしまう。AかBか選びなさいなんていう機会は、選択肢が少ないってこと自体が、十分に追い詰められた状態なのだ。だって、普段、例えば何を食べたっていいのが普通でしょう。ラーメンでも饂飩でもカレーでも、(所持金の問題はさておいて)好きなものが食べられるのが日常で、買い物忘れて家になんもないとか、あるいは米不足でライス以外とか、制限が働くときは大概ピンチで、泥水か尿しか飲めるもんがないとかいう状況ははっきりと危機なわけだから、普段から選択肢があることのありがたみっていうのは忘れてはいかんと思う。
そんなことを考えた。自分の住んでいる町のことも、普段から「どうせ変わらん」とか言わずに、ちゃんと考えないといけないなぁ、と。「変えよう」ってときに、実は「どうせ変わらん」と放棄していた諸々が、反転して押し寄せてくる。5月17日。