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花粉はいやだなぁ。杉の木に責任はないと思うんだけれども、杉を植えすぎたことに対しては、みんなでなんとかならないものかね。
この日は初めての能。国立能楽堂で赤坂憲雄先生の講演を含む、復興に関連した公演「復興と文化III」が行われたのだった。
(以前に僕が行った赤坂先生のインタビューはこちら)。
赤坂先生の講演は興味深いものだった。この世とあの世の間にあるのが舞台なのだという話、そして、そこから想起させられる震災にまつわるエピソード。民話とあなどるなかれ。東北の町々を歩いて赤坂先生が聞き集めたエピソードには、脈々と我々は悲しみを癒すための文化を受け継いでいるのだということが感じられた。そういう講演だった。休憩を挟んで、狂言。そして能。能は文楽に比べて動きがミニマルで、入り込むのが難しかった。狂言はふつうにゲラゲラ笑った。
パンフレットの今福龍太さんの文章も素晴らしかった。少しだけ引用したい。
『復興を文化の問題として考えるとき、それを担うのはあくまで一人一人の私たちにほかならない。国家や自治体に主導された社会復興の掛け声が空回りし、既存の利害関係の網にからめとられて先が見えないいま、自立に立った一人一人の「世直し」の芽を人間が伝承してきた文化の最深部に探り出し、命を吹き込むことが危急の使命である。』
『終わりなき進歩と経済的豊かさの追求にとりつかれてしまった社会の流れを問い直し、前のめりになったクロノス(直線的時間)の暴力的支配から離脱してゆくこと。自らの進路を塞ぐ他者や異物を排除するのではない、非直線的・円環的時間のよみがえりのなかで異質なものと出会い、交換するための流儀を学んでゆくこと。」
ちょっと難しい言い回しだけれども、いろいろヒントのある言葉ではないだろうか。僕たちが接続すべきことにも触れられているし、昨今の、例えば河出書房から日本文学の全集が出ること、古典文学が現代語で翻訳されていることなどからも、同様の空気を感じ取っている人が多いのではないかと思う。ちゃんと、「日本」と接続しなくてはと持っているひとが多いのだ。見せかけの、去勢のような何かで塗り固められた「日本」ではなくて、脈々と受け継がれてきた文化の中にそれはある。この土地が育んできたものだ。もちろん、文学だけではなくて、地方にある独特な芸能や、祭りなんかにもそれは宿っている。もっとディープに「日本」と繋がりたい。俺にとっての祖国愛や郷土愛はそういうことも含まれているのだ。
円環というのもヒントだと思う。すべてのもの、こと、がぐるぐると回って、そこからこぼれ落ちるものが少ないこと。それは多くの人を幸せにする。何も時間的な話だけに関わらず、回転していること、円環的であることはとても大切だと思う。
3月15日。