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何年か前に『チョコレートの真実』という本を読んだ。乱暴に要約すれば、チョコレートにまつわる搾取の話だ。
コートジボワールのカカオ農園では、チョコレートを食べたことのない児童立ちが働いているのだという。ざっとここに列挙することはできないけれども、労働力が人身売買でやりとりされていたり、隣国から流れ込む労働者は搾取され、それによって現地の労働の職もなくなってしまったり、俺がここに箇条書きにし切れないくらいの、想像を絶する現実がそこには転がっている。問題のあまりの大きさに、どうしたらいいのかわからず途方に暮れてしまう。
バレンタインデーも楽しいけれど、一度は目を通してみてもいい本だと思う。
でも、これは対岸の火事ではないと思う。彼らは「金になる作物を作りなさい」とIMFとかから商品作物の栽培を指導されてカカオを作る。するとどうなるのか、現地では自分たちの主食などの栽培よりも商品作物が優先される。その土地に合った伝統農法は受け継がれなくなり、食物は輸入に頼る以外になくなってしまう。そっちのほうが安価だと先進国が勧めるのだ。
一見、理にはかなっているのかもしれない。商品価値の高い作物で収入を得、そのお金で安い穀物も買って食べる。まあでも、そんなふうにうまくはいかない。自分たちで食べるものを作れない国はどうなるのか。見事に穀物市場に翻弄される。気候変動などで穀物の値段がつり上がったとき、どうなるか考えたら分かるだろう。主食の栽培を取り上げられた国の悲しさがここにある。パン屋で、クソ高いパンを買うために長蛇の列に並ばなければいけない、そんな事態も実際に起こりうるのだ。
労働力を買い叩き、搾取によって栽培されたカカオを買って、チョコレートを食うのも、穀物を売りつけるのも、先進国のしていることだ。マッチポンプみたいなものだ。本当に酷いことだと思う。世界中の文化をぶっ壊しながら、していることだ。俺たちはそれをヘラヘラを食っている。
そして、俺はチョコレートが好きだ。
日本はどうだろう。米の栽培を取り上げられたらどうだろう。「日本の米は高すぎる」という外圧がある。本当にそうだろうか。目の前の支払う額ではなくて、例えば、水路や水稲栽培の技術を失ってまで外国の米を買って食う場合、どちらのほうが損失があるだろうか。もう一度、農業に対するインフラを再構築しようと思っても、お金では買えないものが失われた後なのではないだろうか。疑問を呈するまでもなく、大損失だろう。そういうものを一切合切売り渡しても、向こう5年の利益を最大化しようなんて話に乗ってはいけないのだ。
『チョコレートの真実』を読んで、当時思ったのは、そういうこと。自分たちの食について、考えなければいけないってこと。以前に作ったTHE FUTURE TIMESの農業特集(http://www.thefuturetimes.jp/archive/no03/)も、こういうところからも興味を引き継いでいる。
バレンタインデーに冷水ぶっかけるみたいな記事だけれど、農業だけは売っぱらってはいけないと思う。同時に、食べているものだ一体どこからやってきたのかを、ちょっと考える時間を持ちたいとも思う。そればかりに埋もれてはいられないけれど、何を選んで買うのかはとても大事だと思うから。