京都取材と杉本文楽
カテゴリ:日記

 

 この日は遠出。まずは、京都にて取材。ソロのツアーに参加してくれるターンテーブルフィルムズの井上君と対談。とても和やかな対談だった。井上君は俺のソロアルバムでは3曲にギタリストとして参加してくれた。センスが良いというか、センスが合う、ように俺は感じる。こう来て欲しいな、というイメージにいくらかのプラスアルファを添えて期待に応えてくれた。

 

 その後は大阪に移動。フェスティバルホールで杉本博司さんが演出した文楽公演・杉本文楽『曾根崎心中』を観た。

 

 

 冒頭、暗転から、舞台に三味線方・鶴澤清治さんが浮かび上がった。とても幻想的な幕開けだった。その後、「生玉社の段」の冒頭が素晴らしかったなぁ。舞台の奥行きを使って、鳥居の奥から徳平衛がこちらに向かってくる演出にはとても驚いた。文楽のステージは奥行きを意識した演出というよりは、横スクロールというか、屏風絵に近いよいうな感覚で物語が進んでいくような印象を何回かの観劇で持っていたので、こうして舞台の前後を大胆に使うということ自体、想像もしていなかった。毛穴がキューっと収縮した。

 

 あとは付いていくのが大変だったなぁ。この『曾根崎心中』は近松門左衛門の原文を使用しているとのことなんだけれども、その原文が難しい。とにかくスッと意味が入ってこない。笑。古典だものね、仕方ないのかもしれない。一方、普段の文楽で上演されている『曾根崎心中』はこれよりも分かりやすかったんだよね。昭和になってから本が書き直されていることもあると思うんだけれど、現代の人が観ても分かるように射程が設定し直されているように思う。橋下大阪府知事が文楽には集客のための工夫がないとおっしゃっていたけれど、こうして比べてみると、大夫こちらに寄せてくれてあることが分かる。笑。そのくらい、原文は難しいなと、俺は思った。

 

 あと、会場が、やや、広いように感じた。興行の関係かもしれないけれど、若干、音響の面で難があるように思った。もっと閉じた場所が相応しいように感じた。三味線とか大夫の声が跳ね返って膨らんでしまわないようなキャパシティがいいというか、ホールのリヴァーブがやや強いので、やや音像がぼやける。それでも、この広さでこの響き!と、大夫の声や三味線に感心するのだけれども...。俺は、もっとビシビシと音の角が届くような距離感で演じられるのが似合うと思う。それこそプレミアムチケットになってしまうかもしれないけれど。笑。

 

 日本の楽器や音楽が心地よく響くためには、それ相応の施設/建築物ってのがあるんだなぁなんてことを考えながら梅田まで歩く。これは「楽器によって使う素材が違う」ということを考えても、間違いないと思う。ギターのボディには南米の熱帯雨林の木や、シベリアの杉なんかを使う。日本の木はギターには向かないのだ、という話をヤイリギターの工場で伺ったことがある。でも、箏とかには使うのね。木にも固いとか柔らかいとか、そういうのがあるのだ。だから、ああいう、三味線の濁った倍音とか、大夫の声色とか、それが良く響く環境というのは長い年月をかけて場が作られてきたのではないかと、俺は想像した。まあ、どこかで歴史は断絶しているのかもしれないけれど、ああいう演芸は場に合わせてなのか芸に合わせてなのか、時間の経過の中で、最適なキャパシティを選択してきたんじゃないのかと思うわけ。だけどまあ、現代の建築は俺たちのライフスタイルとか規模から逆算されている、のかもしれないので、それがハマる/ハマらないっていうことが起こるのかな、と。

 

 巨匠の演出に文句つけているわけではないです。笑。凄い!とか、陳腐な感嘆符を脳内で連発して、時には口に出してしまったりしながら、観劇しました。大夫、背伸びして観たなぁ。スノッブだったかもしらん。でも、何かを知りたいとき、感動したときは、ちょっとくらい背伸びしなきゃ。こちらから能動的に表現物に向かっていかなかったら、感動なんてないと思う。餌じゃないんだから。

 

 観られてよかった。念願がかなった。3月28日。

 

 追伸。『THE FUTURE TIMES』でも文楽の記事を以前に作りました。偶然にも『曾根崎心中』を観劇しての記事。こちらも読んでみて下さい。 

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