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ソロの作業、そしてアジカンの作業。ちょっと面白いコラボレーションの話があって、そのためにいろいろアイデアを考える。まあでも、まだザックリなのであまり進展しなかった。
そうこうしている間に『THE FUTURE TIMES』の校正の仕事もはじまって大慌て。音楽の作業は中断して編集長モードで深夜まで入稿データのチェック。いやいや、紙媒体の編集というのはとても大変だ。
どうしてか、それは修正が簡単にはできないからだ。webの場合は修正も、更新も、タイムリーに行うことができるけれど、紙の場合はそうはいかない。身体(紙)に焼き付けるので、当然、こういうところのスピードは鈍い。
だからと言って、メリットがないのかというとそういうわけでもない。デメリットはメリットでもある。その「鈍さ」のために、情報の編集に慎重さが求められる。掲載ページ数も有限だから、何を載せるかについても物理的な制約があって、それゆえに「絞る」という行為が内容を濃縮することがある。そういうふたつの要素がうまく働くと、とても良い記事になる。冗長さを回避できる。
そして、身体があるということは、情報が強く焼きつく。これは鈍さとも繋がっているのだけれど、身体があると、「どけ」と言われてもなかなか「どかない/どけない」ような強かさにもなる。いやでもそこに在ってしまうのだ。例えば、喫茶店に、居間のコタツに、書店の棚に、在る。在るってことは案外強い。電源を入れなくてもそこに在るし、興味がなくても目の前に勝手に在る。
例えば、食事に喩えようか。ラーメンの動画、そこには情報があるけれど身体がない。でも、目の前にラーメンが出てくると、そこには身体がある。このふたつの差を考えると、とても面白い。どちらが良いとか悪いとかではなくて、働きかけ方が違う。そこに在ることの強さは、身体が担保するのだ。でも、これ、結構雑な比喩だけれどね。身体について話すためだけの、喩え。
タトゥシールとほんまもんのタトゥとかにしとけば良かったかな、身体のことだけを話すならば。例えば、右肩に自分の好きな女の子や男の子の名前を掘るとなったら、かなり慎重になるでしょう。笑。誤字があったら嫌だし、将来のことを考えずに無鉄砲に刻み付けたりはしない。というように、紙もその場合の人間の身体と同じような、とりかえしのつかなさがある。のだ。
お金もかかるしね。これもまた、慎重さが要求される理由のひとつ。様々な緊張感を作家やライター、編集者に求めるのよね。これは紙媒体の仕事をしてみて、特に編集の側に立ってみてわかったこと。いろいろな技術の結集したものなんだよね、雑誌ひとつとっても。凄い数の人が関わってる。で、その集積が雑誌になっている。週刊誌のことなんか考えたら、気が遠くなる。笑。毎週やってんのか!と。
こういう紙媒体の現場の人の技術について、もう少し評価されると良いなぁとも思う。特にライターって、不当に評価が低いような気がする。書くことってとても大変。当たり前だけれど、読み書きができることとは別の能力が要求される。やってみたらこれ、大変だよ。
3月14日。