音楽と言葉 考
カテゴリ:日記

 

 言語と身体というテーマに絡めて、「英語で歌うときと日本語で歌うときは何が違うんですか」という質問を受けた。

 

 俺がなぜに日本語で歌詞を書いているかと言えば、それは音楽における「なんかええ感じ」とか「こういうフィーリング」みたいなものを言葉で翻訳/写実するときに日本語のほうがそこまでのアクセスのスピードが早いからだし、詩の善し悪しのど真ん中に居る比喩っていう表現方法/技法も日本語のほうが巧みであるから、だと思う。

 

 ただ、一方で、ロックンロール自体は英語圏から輸入されたスタイルなので、そもそも英語のほうが収まりがいい。発語を連続していったときのリズムは英語のほうがスムースで気持ち良いのではなかろうか。でも、まあ、それを日本語でやりたいしできるんではないかというわけで、もう何十年もかけて先人たちは日本語でロックを鳴らすことと格闘してきた、と俺は考えている。だから、俺もその歩みの一部だなと、誇りを持って取組んでいる。

 

 作曲をはじめた頃は洋楽への憧れが強かったので、全曲英語で歌詞を書いていた。ついでに言えば、まあ、伝えたいこともなかったし、詩を通して自分のことを知ってほしいという欲求もなかった(今もまあ、ないけど。笑)。なんというか、気持ち良い発語感を持つ言葉で喉と唇を震わせ、ギターを掻きむしりたかった。できるだけデカい音で。ただそれだけだった。ので、別にスワヒリ語でもヒンドゥー語でもハナモゲラでも構わなくて、なんかええ感じにメロディと一体になる言葉であれば良かった。だって、言葉って面倒くさい。俺は音楽に酔っていたいだけなのに脳に働きかけてきて、悲しくなったり楽しくなったりだったらまだしも、シラけさせる。歌詞がダサって思うだけで心も止まる。なんで語尾だけ英語なんだよ、I don't know why? みたいな。笑。そんな風に10代後半の頃は感じてた。

 

 ほいで、ライブを沢山やるようになって、まあ相変わらず伝えたいことは「こんな感じの音楽いいよね」以外に何もなかったんだけれども、それだけだとどうしても届かない、埋もれていくんじゃないかと俺は思った。実際に埋もれていた。笑。特に横浜の南端から東京に出て行ってみたらば、もうなんか、俺、こんなに斜に構えてちゃダメだなっつうか、真っ直ぐエネルギーを飛ばさないと、誰も聴いてくれないんじゃないかと感じた。でも、日本語で書くのは気恥ずかしいし、語彙もスキルもないから、そこから2年くらいかかった。ちょっとずつ英語の曲に日本語を忍ばせながら実験をして、こういう言葉なら自分はシラケないだとか、グーっと入っていけるだとかを感覚として学びながら。

 

 どうしても曲を先に書くタイプなので、音楽的な言語が先行する。っていうのは、音符の話ではなくて、自分の感情なんかをまずはメロディやコード進行なんかが表出させる。それは言葉にしたら「この感じ」みたいな、笑、まあそれでも全然良いんだけど、それを俺は言葉で言い当てたいわけで、言い当てたいというかメロディと合わさることでエネルギーを持つ言葉を選びたいわけで、そういうことと格闘することが、音楽、なかでもポップミュージックのソングライターである自分にとって意義のあることだと思っている。楽しみでもある。ときに苦しみのときもあるけれど、まあ、トンネルには出口があるからなぁ。なんつってな。

 

 話が長くなったけれど、最初の質問に戻れば、英語の曲は余程好きで歌詞まで覚えているような曲でなければ、そういう現象(言葉と音とフィーリングが一体になるような。あと身体も)が起きない。少なくとも俺は。自分で書いた英語の歌詞の曲は、どんなに文法が出鱈目でも下手なりにそのときのフィーリングを詰め込もうと格闘した結果なので、解像度は低いけれど接続はできる。でも、日本語のそれと比べると、もの足りないなぁと思う。あと、例えばボブ・ディランの曲を歌いながら、この歌詞分かるわぁってなることはほどんどない。全集読みながらほう!となることはあるけれども。そこは正直寂しい。でもあれよ、メロディや楽曲に詰まってるフィーリングは音楽的な言語で感じるけれどもね。そこのアンテナはもちろん立ててる。でも、言葉は即時には入ってこない。

 

 日本人なのに英語で歌っているひとたちがどうなのかっていうのは、俺には分からないんだけれども、フィーリングの表出としてはそっちのほうが早いし音楽としても聴き映えが良いってことなんだろうと思う。ロックミュージックとしての相性を優先させると、まあ、そうかもしれない。で、伝えたいことがないかと言ったらそうではなくて、大体和訳詞が付いている。すーごく格好良い訳(意訳とか)が多くて、俺はたまにむずがゆくなるけれども。笑。音楽の現場で歌詞がモロに伝わってしまうと、言葉にひっぱられすぎてしまって、ダンスとか、まあ、モッシュでもダイブでも良いんだけど、そういう音楽的な部分(同時に身体的でもある)が削がれてしまうとも思ってるんじゃないかと思う。ウェットになる。実際、日本語の歌曲はどこか演劇とか、語りみたいな芸能に寄ると俺も感じる。っつうのも、歌詞が好きなんだ、この国の多くのひとたちは。音楽よりも、言葉に寄ってる。それがちょっと煩わしいから英語で歌うっていう側面は、かなり大きいと俺は勝手に推測してる。観念よ邪魔しないておくれ、みたいな。一方で、スポーツみたいになってる音楽やその現場もある。まあ、この辺は好き好きなんだけど。

 

 音楽的な言語と文字としての言語、そして、フィーリングがある。で、言語は脳を経由して身体に影響をもちろん与えるので(言葉が明瞭だと、聴き入ってしまうなど)、どちらを先行/優先させたいのかっていうことなんじゃなかろうか。そのバランスによって、音楽と言葉の関係が、それぞれの表現で違ってくるんだと思う。さらに内容も関係してくるわけだけれども。

 

 あー、長くなった。笑。うまくまとまらないけれども。現時点で言えるのは、そんな感じです。あはは。12月3日。

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