「読む」ことについて
カテゴリ:日記

 

 読めるということは結構ヤバイ。法案にしろ、改憲案にしろ、「こう読める」というのは恐ろしいことなのだ。現政権が正しく運用したとしても、それが未来永劫続くわけではない。ある特定の政治勢力が政権を握ったとしたらどうだろうか。その場合、「読める」ということは、それに則して運用できる/運用されるということだ。本当に恐ろしいのはそれだ。つまり、現政権が「ナチス的」なのではなくて、通した法案や改憲案が「ナチス的」なるものを担保してしまう可能性があるのだということ。ここがおそろしい。

 

 と、前に散々変に煽られた改憲案についての日記にも書いたつもりだったんだけどね。そうは読んでくれない人たちもいる。これははっきりと読解力がないからだと思う。

 

 一方で、とんでもなく恣意的な読み方が出来る頭の良い人たちもいる。きっとエリートだろう。そういう人たちが台頭し権力を持つことが恐ろしいのだ。気づいたときでは、遅い。それはもう何も言えない空気が作り出された後だろう。監視され、監視し合う社会が出来上がった後だろう。だから、いつでも芽を摘んでおくべきなのだ。

 

 例えば、憲法9条を「読んで」、我々の国は自衛隊という組織を持っている。これはそう「読んだ」からだ。はっきり言えば矛盾している部分もある。だけれども、そう「読んだ」。このことの大きさを考えてみてほしい(ときに素晴らしさでもある)。是非の話をしているのではなくて、これは「読んだ」ということに対しての話だ。現行憲法でここまで読めるのならば、憲法を改正したとして、それを後の、まだ僕らが会ったこともない勢力がどう「読む」のか。それは分からない。だから、「読めて」はいけない。人権よりも義務が先だなんて「読める」ことの恐ろしさを思う。

 

 読むってことは、とても難しい。書くってことも同じ。そんなことを考えた師走の前日。11月30日。

2013-11-30 1385818740
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