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たまにSNSなどで「その日本語間違ってますよ」と指摘してくるひとがいる。まあ、それ自体はなんとも思わないし、実際にこちらがおもクソ間違った日本語をドヤ顔で使っていることもあるので、そういう場合は素直に勉強になりましたと、そういうことで終わりになるのだけれども、この日は「煮詰まる」という言葉を巡ってムキョー!と俺は大人げなくもムキになってしまった。
俺は今朝方なんとなくまとまった新曲の録音を作業場で行っていた。アコースティックギターを録り、ドラムのパターンを決め、ベースラインをいじくり、仮歌を唄ってその上にコーラスを重ねた。この時点でかなり良い感じではあったが、ここからがあまり上手くいかなかった。鍵盤ハーモニカやギター、シンセサイザーやオルガンなどなどいろいろな楽器を重ねてグツグツグツグツやってみるもイマイチしっくり来ず、これはもうこのあたりで終わりだな、ちょっと寝かせてみようかな、そうだねカレーは翌朝が旨いものね、ということで脳内会議で作業の中断が確定、そして「煮詰まった」とツイートしたのだった。
そうしたらば、「煮詰まった」の使い方間違ってますよ、というメッセージがやたら送られてきたので、ほうこれは誤用とあらば申し訳ない、確認のために辞書を引こうと「広辞苑第六版」を引いたのであった。そこにはこうあった。
に-つま・る【煮詰まる】《自五》
1.煮えて水分が少なくなる
2.議論や考えなどが出つくして結論を出す段階になる。
3.転じて、議論や考えなどがこれ以上発展せず、行きづまる。
間違ってへんやないか。ということで、俺は辞書に書いてありましたよと知らせた。「ああそうですか、そういう意味でも使われるようになったんですね、あーそれはそれは」ということで一件落着かと思いきや、「本来的な意味は2番なので日本語としては誤用なのだ」や「詩を書いている人間なのにガッカリだ」、「広辞苑にも間違ったことが書いてあるのか」などなど「www」このようなアルファベット付きの返信を頂いて脳が沸騰して汁になったわけであります。ムキョー!!!
まあ例えば、「役不足」という言葉において不足しているものが勘違いされているというというような誤用、慣用句や諺の類の意味の取り違えだったら素直に画面を前にに土下座して反省の意を表明したのだけれども、腑に落ちない。ムチャクソ腑に落ちない。
どうしてか。この言葉が比喩だから、だ。2番の段階で既に「転じて」と注釈が入るであろう言葉ではないか。辞書によってはそう書いてある。要するに、どこかの段階で、鍋などがええ感じに煮詰まってきたことを物事の進捗状況に例えて合議などの場で「ええ感じの甘辛い佃煮みたいに煮詰まってきましたな、グヘヘ」という比喩を誰かが使って、それが普及して今日に至っているわけだ。「本来的」な意味としていうならば「煮えて水分が少なくなる」の一択。なんで、そのソイツが大昔に普及させた比喩を全面的に正しいと断定されなければならないのか、俺には分からん。鍋でも料理でも悪い方向に煮詰まることがあるだろうに。煮詰めてはいけない料理もある。この言葉は実際に、(この言葉の起源がいつなのかは知らんが)時間をかけて、そこからさらに転じて「行きづまる」と似た意味としても使われるようになって、すべてではないがいくつかの辞書にも載るようになったと。辞書だって改訂されるのだ。使われないということで、削られて掲載されなくなってしまう古語なんかもある。というか、言葉は流動して行く。「正しい日本語」とか簡単に言わないで欲しい。「なんとかで候う(さふろう)」とか普通に使ってるひといないでしょう。
ここまで書いて大分大人げないという意見もあると思う。俺もそう思う。自分の親父が夜な夜な日記にこんなことを綴っていたらば、お父さん一杯行こうよと飲みに誘って「まあまあ」と瓶ビールをすすめただろう。だけれどもツイッターなどでしたり顔でテレビで知ったか授業で習ったかは知らんが、調べもせんと「間違ってる」の一点張りをされても困るし、よくも考えずに「正しさ」みたいなものを振り回されても腹が立つ。そして、俺は性格が悪い(皆が知っているとおり)。笑。
いやいやさぞかし良い辞書をお使いですね、という半分嫌味な言葉を脳内で俺に投げかけている人たちも沢山いるだろう。俺が使っているのは、アプリの『広辞苑 第六版』とネットだ。ウィキペディアの類はあまり信用していない。ウソもたまに書いてあるというか、大体俺についての情報が間違っているので、デタラメも時として載ってしまうのだと思う。アプリの辞書は発想としてとても好きだ。なぜか、恐らく、改訂版が発行された場合はアップデートでそれを即座に使用できるからだ。持ち運びも楽。辞書は最もネットやアプリと親和性があるものだと感じる。俺はこれをかなりの頻度で使う。日記を書いているときにも、気になったら直ぐに使う。案外、言葉の意味をとらえずになんとなくで使っていることが多いから。
「正しい日本語」ブームみたいなのは、歴史の勉強にもなるし面白いと思う。でも、なんかその「正しさ」みたいなものばかりを振りかざされても困る。1000年後に、僕らが使っている現在の言葉が残っているとは限らない。どう使っていくのかで、変わってしまう。そういう意味では「日本語の乱れ」みたいなものを感じて嫌うひとがいるのも理解できる。けれども、言葉は変わっていくのだ。以上、長い言い訳。ド阿呆(俺のこと)。10月22日。