ceroの魅力、東京と地方についての追記。
カテゴリ:日記

 

 NANO-MUGENサーキットに参加してくれるceroのことを日記で紹介したらば、ちょっとした行き違いもあって、「東京と地方」に対するコンプレックスの話に飛躍してしまった。なんというか、それは全くもって本意ではないというか、俺の言葉が足りなかったので、もう少し書きたいと思います。うん。

 

 僕が初めてceroを言葉で評したのは、こんな文章。

 

「田舎者の私からすると、彼らの音楽はとても都会的だし、現代的に映る。例えば、情報鎖国みたいな地方の田舎町から出て来た私は、なけなしのバイト代で買った数枚のレコードを参考にエモーションを炸裂させるしか仕方がなかった。でも、彼らにはあらかじめ豊かなレコード棚と本棚が身近にあったのではないかと想像するし(予備知識なしで書いているので偏見かもしれませんが)、いろいろなジャンルの音楽や文学にも自由にアクセス出来る情報網があったのだと思う。だからと言って、誰もがこんなに素晴らしいレコードを作れるというわけではないのだけれど、そういう要素(地理や世代や財産がもたらすアドバンテージ)が見事に結実しているので、素直に感嘆するしかないし、羨ましくも思う。もう本当に、清々しく嫉妬する。」


 この前の日記も、同じことを違う書き方で書いていると思う。うん。


 俺らの時代っていうのは(現在36歳)、ネットが身近になかった。初めてmacを買ったのは20歳を過ぎてからだよ。秋葉原でローンを組んで買って、電話回線でネットに接続した。それでもそこから随分と接する音楽が広がって、同じような趣味を持つ人たちとも出会えたし、情報交換ができるようになった。それはもう画期的なことだったよ。回線の速度はクッソ遅かったけれどね。笑。はっきりと革命だったんだよ、俺にとっては。


 だって、ネット以前は、知っていること自体がアドバンテージだったんだ。今でこそ、どこからでも似たようなライブラリに辿り着くことが可能になった。YouTubeだって、なんだってある。でも、当時は、情報を得るってことが、そもそも大変だったんだよ。「お前は知らなくていい」なんて言われることもあった。つまり、俺がコンプレックスを持っているのは、「東京」なんじゃなくて、若い頃に「豊かなライブラリに接する機会」をもっていなかったことなんだよね。そういうコミュニティに属してなかった。それはもちろん、環境のせいだけじゃなくて、俺の問題でもあるんだけど、それでも物理的な制限はあったと思う。そういうことを言葉にすると、「東京と地方」みたいな話に回収されがちなことは分かるんだけど、ちょっと主題が違うんだ。


 でね、とても豊かな音楽だと思ったの。それはもう悔しいくらい。で、理想郷だって前の日記に書いたのは、都会のことではなくて、この豊かさ(ネット由来ではない)について。HIP HOPもポップスも、ポエトリーリーディングも、サンプリングやカットアップやコラージュとか、あるいは文学も、いろいろな要素が混ざっているんだけれど(俺が感じ得ない何かも)、その編み方が素晴らしいと思った。すごい!って思ったんだよ。俺はレコメンド記事で心が折れかけるほど衝撃を受けたことを告白してる。彼らが(俺の想像では)知的なライブラリに接続する機会を持っていただろうこと、そして、それを土台に創作されたアウトプットが素晴らしいこと(これは彼らの技術だ)、それに感動したんだよね、素直に。

 

 で、これは、凄い時代が来るんだなって思った。全部混ざると。そういう人たちが出てきたと。あー、ゼロ年代は終わるわーって思ったの。俺たちは過去の世代にされちゃうなって。笑。一点突破ではなくて、なんていうんだろう、編む力っていうのかな、もう何もかも出尽くしたなんて言われる時代でも、こうやって新しい組み合わせと感性、そしてイマジネーションで面白い音楽を作るひとたちがいるっていうこと。そしてもう、デジタルネイティブって人たちがどんどん出てくるわけじゃない。誰しもがceroのように表現できるわけではないけれど、最早俺が持っていたような「蚊帳の外」というようなコンプレックスは持たなくていい時代になったわけだよね。

 

 そういうわくわくを、ceroから先取りして感じたっていうか。まあ、そういう驚きだったんだよね。発明のような、新しいフィーリングだと思った。そして、このバンドに続くように、いろいろなバンドや音楽が現れたら凄くなるなぁって。リスナーとして楽しくなるなって。

 

 まあ、俺が田舎者って強調するのが悪いんだけど。笑。田舎ってことより、なんつうのかな、知的じゃないってことが、俺のそもそものコンプレックスです。はい。アレ若い頃に読んどきゃ良かった!聴いときゃ良かった!ってものばっか。で、それを環境のせいにしてる俺もずるいよね。お前の興味がそこに辿り着かなかっただけじゃねえかって言われれば、そうとも言える。でも、実家に「◯◯◯◯文学全集」とかさ、そういう本あったら良かったなぁなんて、そういうことも思ったりするわけ。笑。両親のこと悪く言うわけじゃないよ。何もいただきものは音楽や文学だけじゃないから、恵まれていたことも沢山ある。感謝しているしね。俺が後天的に音楽とか文学に興味を持って、その結果としてないものねだりをしているだけなので。

 

 でさ、俺らの頃の話に戻すと、知ってる奴らは大体偉そうだったんだよ。スノビッシュだった。クソ嫌みだったよ。これも俺のコンプレックスによって増大された偏見だけども。笑。

 

 それに引き換え、彼らにはそういうところがないように感じるんだよ。それはあくまで音楽を聴いての感想だけどもね。会ったことがないし。そういうところが、俺は素敵だなって思うわけ。「これ分かんないの?」ってところがない音楽だと思ったんだ。開かれているというか、ね。

 

 なんか凄く、バランスを欠いて褒めちぎっているようになってしまったかな。こういうの、本人たちは迷惑かもしれないね。でも、俺は今回の日記はリライトしたかったわけ。で、結局のところは、俺がどんなことを書こうとも、彼らの音楽を聴いて皆が判断すれば良いと思う。っつうか、そういうもんだよね、何かを読んだり聴いたりするってことは。アイツの言ってること全く分からんわ、っていうのもアリなわけで。

 

 

 で、話は逸れるけれど、東京出身の友達からこんな内容のメールが来た。「東京出身ってだけで逆差別を受けることが多いのも事実だ」と。そして「自分は東京で活躍する地方出身者の、彼らにしか持ち得ないパワーと、故郷を自分のものとして語れること対するコンプレックスがあるんだ」とも言ってた。「産まれたときから多数側(広い意味での東京)にいて、それを言われても何も言えない」と。これは「東京モンにはわかるまい」っていうよくある田舎の視点に対して、「東京」が彼らの故郷であることよりも記号としての、象徴や比喩としての「東京」って部分が肥大してるって話だよね。俺も、たまに無神経に「東京は」って語ってしまうことがあるから、反省しないといけないことだけど。

 

 追記までして上手にまとまった感がないけれど、まあ、なんというか、読んでくれてありがとう。

 

 まあ、今までは面白い人が相対的に大都市に集まってたから、面白いもんが都会からでてきたけれど、SNSなんかによって、ボーダレスの場所と意味がどんどん変わっていくことは間違いないよね。逆に、ローカルなものが面白くなってくるかもしれない。どこからでも同じものに接続できるならば、逆転することもあると思う。そういう意味では、東京ローカルってのもあると俺は感じているよ。そして、その人がどうかってことが、浮き立ってくると思う。

 

 長いな。意味不明だったらすまぬ。5月17日。

 

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