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アルバム『ランドマークの全曲解説』も最後になりました。「アネモネの咲く春に」。
この曲、原形は『マジックディスク』のときに一度ボツになっているんですよ。ボツっていうか、原曲を聴かせたらメンバーが見向きもしなくて、っていうか他の曲のほうを気に入って(例えば「架空生物のブルース」とか)、それでお蔵入りになっていたのです。『マジックディスク』のツアー中にフジファブリックのダイちゃんと部屋飲みしながら「これボツなんだよぉ」とか言って聴かせた記憶があります。愚痴言いながら。笑。
そのお蔵入りになった曲を全面的に書き直したのが「アネモネの咲く春に」です。「溜め息ならオーバーに 吐き出せほら凍土に」ってところだけ、そのボツになった原曲のメロディと歌詞を残してあります。アジカンがこの先もう少し活躍したら、俺が死んだ後でデモ音源発掘!的な感じで発表されるかもしれませんが、聴かないで下さい。笑。つうか話が逸れるけど、あの、有名なミュージシャンが亡くなった後で発掘される未完成音源、あれ、どうなんですかね。本人は天国(があるとして)で「あ〜!それ!うっわ!恥ずい!!ヤメて!!!」とか思ってると思うんですよ。その曲がどんなに良くても、本人にとっては未完成なわけで。
話を戻します。
歌詞は読めば分かるとおり、東日本大震災と原発事故のあとで書きました。じっくり時間をかけて。で、言葉数も、歌詞通り「ふさわしい言葉」も、圧倒的に足りないなと思ったんですね。俺が日頃からその機能について関心を持っているHIP HOP、というよりはラップミュージックの手法でアプローチしても、書きたい事柄に内容として届かないんじゃないかと思いました。ポエトリーリーディングでも足りない。本を丸ごと一冊でも足りない。なぜならば、この2年で感じたことは言葉になる以前に、自分っていうメディアに刻まれているわけで、そして、それを凌駕するファクトがいろいろな場所にあるわけで、それを射抜こうと思って「数」や「量」に走ったら、おのずと「身体」が立ち上がってきてしまうというか、これ以上に情報量の多いメディアはないっていうか。ちょっと分かりにくいですかね。
だから、どのくらいの量が出てくるかっていうことじゃなくて、どういう質のものが出てくるのかってことが大切なんですね。「身体」から、どんな言葉を引っ張り出すのか。そのうえで、やっぱり言葉数を増やせるラップミュージックへの憧憬はあります。同時にメロディを信頼してもいますけれど。
そういった、ミュージシャンであることと詩を書く人間であること、表現活動を行うということ、当たり前のことなんですけれど、もう一度眼前にそれが立ち上がって、それに立ち向かいながら書いた歌です。楽曲については特にギミックはないし、ずっと同じコード進行。ヴァース、コーラスの繰り返しで、まあ西洋のロックのフォーマットですね。日本人が単調だなって思うことが多いパターン。Aメロ、Bメロ、サビ、展開してー、みらいな脂っこさではなくて、3通の手紙を読み上げるための淡々とした、それでいてエモーショナルな演奏というか。
この曲、「アネモネの咲く春に」はライブ音源のほうが良いです。DVDのヤツで聴くっていうよりは観てもらったほうが、伝わると思います。やっぱり、さっき書いた「身体」ってのも、この曲を伝えるのには重要だと思います。全部書ききれたかっていったら、そうは言えないから。今でもこの曲は変形しているし、想いが足されていっているようにも感じるし、鳴らすときの感覚とか感情とか、そういうものがあって成立する曲なんだと思う。それはどの曲でもそうなのかもしれないけれど、例えばリライトを最近のライブで歌うことについては足されてる想いっていうよりは現在の「解釈」という言葉のほうがしっくりくるんだけど、「アネモネ」は解釈じゃなくて、身体の外側に出していない言葉なので、いつも身体としての俺自身が乗っかって、鳴る、そういう感じなんです。毎夜、アップデートされていく。
まあ、そんな感じかな。だから解説するのも難しい。笑。『ランドマーク』解説については、また最後のまとめの記事を近日中に書きます。はい。
あ、あと、ボブ・ディランのことを考えながら(詳しくないけれど)、書きました。「アネモネの咲く春に」(っていうかアルバム全体ね)。『ランドマーク』のツアーは全会場、終演後のSEの一曲目はボブ・ディランの「風に吹かれて」です。和訳の歌詞を検索して、読んでみて欲しいです。いろんな訳があるけれど、ね。俺はこんな歌を書いてみたいと、思っていたわけ、恐れ多くも。笑。
今でも。ね。5月15日。