あれから2年
カテゴリ:日記

 

 震災から2年が経った。

 

 当時、都内のリハーサルスタジオで感じた揺れは、はっきりと生まれて初めて感じる種類の振動だった。建物の外に避難しながら、小さい頃から心配されていた東海地震のことも思った。とにかくどこかで、とてつもない地震が起きたのだということは分かった。路上では電線がヒュンヒュンと音をたてて揺れていた。

 

 スタジオのロビーに戻ってテレビを点けたところまでははっきり覚えていて、あとはフジテレビの近くから黒煙が上がっている映像が焼き付いている。どの時間から日本の地図が津波警報や注意報を示す赤や黄色のラインで囲まれたのかは覚えていなくて、どこの町かは知らないけれど、漁船が押し寄せる波をかき分けながら川を遡上するように進んでいる映像と、港や水産加工会社などのカゴが流されていく映像も頭のなかに今でも残っている。その映像をみたときは「うわー!」と思ったけれど、実際の揺れからはしばらく時間が経っていたので、沿岸部の人たちはどこかに避難しているだろうと思っていた。そして、夕方前にマネージャーの車に乗り合わせて、自宅へ向かった。

 

 高速は通行止め。仕方がないので下道で自宅に向かった。横浜に入ったあたりで日が暮れて、三浦半島の先まで真っ暗であることが分かってとても驚いた。コンビニくらいしか電気が点いていないブロックもあって、人がぞろぞろ歩いていた。道路も大渋滞で、俺はコンビニに車を寄せてもらって、パンと水を買った。コンビニはまだそれほど混んではいなかった。

 

 自宅のまわりは真っ暗だった。信号さえも点いておらず、家にいても落ち着かないので近所の体育館に避難した。体育館は通路や別室までひとで溢れていた。炊出しの冷たい具無しチャーハンのパックをもらって食べ、毛布を借りて白いマットを旅行でやってきたが電車が止まって帰られなくなったという老人男性とシェアして、横になった。老人はそのあと、車で迎えにきた友人の家に行くといって帰っていった。俺は横になったが、マットは固いし、寒いし、なにより不安で、まったく寝られなかった。3時まで起きていると町に電気が戻り、どうやら自宅付近の停電も解消されたようだったので、自宅に戻って休んだ。

 

 次の日の朝になって、本当の被害が露になり始めた。TVでは、建物の上やグラウンドでSOSサインを出しているひとたちの映像が放送されていた。俺はソファーに横になったまま、動けなくなってしまった。急激なストレスからか、ズーンと後頭部を締め付けるような頭痛に襲われて、その日のリハーサルは休ませてもらった。ニュースをずっとみていたはずなのだけど、細部が抜け落ちている。何か変なスイッチが入ったのか、そこから数日であったことの前後関係を上手に記憶していない。何が先で、何が後だったか、まったく思い出せない。とにかく大きな戸惑いの中にいたことだけは感覚として残っている。

 

 

 2年後の今日は、昨年と同じく日比谷公園で行われた追悼イベントに出演した。会場に着くと様々なスピーチが行われていて、やや震災よりも原発問題に寄った雰囲気に違和感を感じた。今日くらい、震災のことだけ考えてもいいんじゃないかと思ったりもした。後のトークセッションや夕方に参加した講演会でも、なんとなく3月11日に話す内容としてふさわしいのかどうかという逡巡があった。もちろん、役割はまっとうしたのだけれど。

 

 2時46分に黙祷。脳裏に大船渡や陸前高田、気仙沼、石巻、仙台の荒浜地区、南相馬の萱浜、行ったことのある場所の風景が浮かんだ。それは一瞬だし、いろいろ混じり合って鮮明なものではないけれど、塊として目蓋の裏側に浮かんだ。俺はグーっと胸が苦しくなって、「逃げろ、逃げろ」と繰り返し心の中で唱えた。あの日のあの時間を思って、それから起きたことを思って、「逃げろ、逃げろ」と何度も思った。それは届くはずのない言葉だけれど、もしかしたら、時間や空間を越えてあの日のどこかの誰かに届くかもしれない。笑われてしまうかもしれないけれどそうやって念じた。追悼のために鳴らされた鐘の音を聞きながら、大きな「震災」のなかであった喪失の数々をまとめて祈るというよりは、モニュメントとしての2時46分を思うと反射的にそうなってしまう。去年もそうだった。静かに祈りたいのだけれど、「逃げろ」という言葉が強い後悔や悲しみとともに浮かんできてしまう。

 

 まだ、自分は戸惑ったままなんだと思う。

 

 また現地に行くことがあれば、それぞれの町の、それぞれの場所で手を合わせたいと思う。静かに祈りたい。3月11日。

2013-03-11 1362950460
©2010 Sony Music Entertainment(Japan) Inc. All rights Reserved.