2003年 | 2004年 | 2005年 |
2006年 | 2007年 | 2008年 |
2009年 | 2010年 | 2011年 |
2012年 | 2013年 | 2014年 |
2015年 | 2016年 | 2017年 |
以前に説明したとおり、アルバム『ランドマーク』はアナログレコードを意識して曲順が決まっています。なので、今回は盤面をひっくり返してB面です。Disc 2でもありますね。このアルバムは6曲入りのミニアルバム×2枚という構成になっています。
ここ最近の楽曲では最も「アジカンらしい」曲なのではないかと思います。こういう曲、実は作るのが一番難しいんです。例えば、「リライト」や「ソラニン」という曲が僕らの一般的なイメージとして定着しているのも分かるし、その良さも理解しているのですが、これを自分たちで意識的に利用するのは自分の中のルールに反するんですね。再生産のようになってしまうと、僕らがやりたいのは新しい何か(例えば、フィーリング)の創造ですから、なんとも違和感がある。言うなら「リライト2」は作りたくないわけです。皆の思う「アジカンらしさ」につながるとしても、自分たちにとっての「新しさ」がないと納得ができないのです。そういう意味では、「アジカンらしさ」に挑戦しながら、新しさにも手が届いた曲なのではないかと思っています。
作曲は山ちゃんのリフを元にセッションで作りました。イントロのリフがギターで指定されていたのですが、ベースイントロに変更して、なるべくこのリフを手をかえ品を変えいろいろなところに登場させていくアレンジにしました。アジアっぽい音階ですよね。そのあたり、山ちゃんが「アジカンらしさ」を意識しての旋律なんだと思います。そうなの?とは聞いていないですけど、絶対そう。笑。
それをさらにエスカレートさせたようなブリッジ(「緩慢な輪になって」あたりのブロック)を作ってしまうのは、もうなんつうか、性癖のようなものです。よくよく考えてみればリライトと構成がほとんど同じなのです。ヴァース(Aメロ)とコーラス(サビ)をなるべく少ないアイデアで押し切ってしまうのが最近の自分たちの理想形なんですけれど、こういう曲はもうひとひねり欲しくなるんですね。そうすると、もう、あそこの場所しかなくなってしまうんです。笑。「もうちょい考えろや」っていう意見もあるかもですが、セッションで作ってるっていうのがミソで、これ、バンドとしての快楽のツボなんです。4人でやると、どうしてもここで緩急の緩の部分が欲しくなる。そういう意味でも、繰り返しますが、性癖です。笑。
歌詞はこのアルバムでもっとも社会的なものだと思います。意識して書いています。『N2』よりも踏み込んで書いているし、このアルバムの皮肉の部分ではもっとも言いたいことが書けたと思っています。
「透明」なものとは何か。自称、または通俗的に「聡明」とされているヤツらとは誰か。「亡霊」や「幽霊」のようなもの(イメージや考え方かもね)とは何か。例えば歌詞中の「東名」での出来事は比喩ですが、「何もないような歩道」のような場所で「興味ない」とか、関係ないとは言っていられないこととは何か。また、「興味ない」と言っているのは誰なのか。
ブリッジの「緩慢な輪になって」からのブロッグは映画/コミックのNARUTOの世界感に直結している部分でもありますが、「異端者」を探して叩く風潮は社会全体に蔓延していますよね。「他」に対してとても厳しい空気が社会を満たしています。「体罰」にせよ、「不祥事」にせよ、「いじめ」にせよ、その実際の背景や事情は現場の人しか知らないのに、そういった単純な見出しのもとにイメージを集約して、とりあえず皆で悪者を探しが始まります。それも「ON/OFF」とか、「賛成/反対」とか、答えがふたつしかないやり方なんですね。世の中って、もっと複雑なのに...。それはマスメディアだけではなくて、ネット上のコメント欄やSNSで、他ならぬ一般市民がこぞってやっているわけです。監視し合っているようにも感じます。
そういう暗い現状を踏まえてのサビの歌詞というか。「何事もない」をどう捉えるかで、180度意味が違う歌詞になります。読むひとにとっては、解釈が違うかもしれない。そういうことも意識しています。
こういう曲を、NARUTOという世界的なアニメーションの映画に添えられて、とても嬉しかったです。NARUTOっていうコミックは、読んでみると分かるんですが、「異端者」の疎外感とかを含め、社会的な問題に通じるような心理描写や背景描写が沢山あるんですよね。少年ジャンプに掲載されていますが、決して少年だけに限らず、大人が読んでも思うところがあるように話が作られていると思います。そこがとても好きです。映画を観た中高生が、この曲はなんのことを言っているのかな?って考えてくれたら尚嬉しいです。
歌詞「だけ」を抜き出して注目されることには、ちょっとした違和感もあるけれど、「何のこといってるんだろう」という場所が入口になっている曲が多いので、僕の歌詞は。それが良いか悪いかっていう反省はいつもしますけれど、どうしても、聴き手にも一歩だけこちらに寄って欲しい。そうすると意味やイメージが広がるように書いているというか、俺はそういう書き方が好きなんです。傲慢なのかもしれないけれど。逆に、演奏者や作者の力だけで成り立つポップミュージックってないように思うんです。いつでも、聴き手/リスナーが発見と解釈をするからこそ、良い音楽は残ってきたのだと思うんですね。ビートルズは凄いけれど、それを「良い!」と言って見つけてきたひとも凄いですよ。一方で、やっぱり脳に直接電線を突っ込んで記号としての良さというか、化学物質というか、「分かりやすくて良かったです」が感想の一行目にくるというか、そういう消費型の社会の中に俺らはいるわけで、そういう単純な回路を拒みたい、というような気持ちも、歌詞の難解さにつながっているとは思いますけれど。言った側から分かられたら怖いというか。分からなそうだから、皮肉めいたこと歌いたくなっているわけで。笑。なんか倒錯してる部分もありますね、俺。LOVEとHATEがこんがらがってます、率直に。
「NO NUKES Tシャツは着ないで下さい」と言われる現場で、「それでは、また明日」を歌わせてくれて、しかも凄い顔で俺は歌っているわけですが、それを編集で抜いてくれたTVスタッフの皆さん、ありがとうございました。建前として「そういうのやめて下さい」と言いながら、俺らが本当に演奏したい曲を良い形でやらせてくれたのは、とても嬉しかったです。思い込みだったら、前言撤回します(例えば、ただ単に直近のシングル曲だったので、という理由だったとしたら)。笑。これが大人の反逆なのかなって。「◯◯反対!」という前に言いたいこと、そっちのほうがありますから、俺。で、それが解決しないと、何をやっても良くはならないんだろうなと思うのです。この曲の奥底に据えられた、仮想敵としての「冷たさ」のようなもの。それに抗うために、あるいはそれを告発するために、表現というものはあるような気もします。もちろん、関係のないものもあるでしょうけれど。
最終的には、希望的な感触で、この曲の最後の一行が鳴ってくれたら嬉しいですね。「それでは、また明日」が、繰り返す日々への皮肉ではなくて、毎日の柔らかな挨拶のようなフィーリングとして、明日が来ることへの喜びというか、そういう感覚の代表として、響いてくれたら嬉しいなと思います。
2月10日。