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「マーチングバンド」の歌詞が後半に登場するとのことで、J-WAVEの取材時に『援デリの少女たち』という本をいただいた。春を販ぐ(ひさぐ)少女たちのルポルタージュで、読んでいてとても胸が苦しくなった。
世の中をお金だけでまわしてはいけない、みたいなことを俺は偉そうにもいろいろなところで吹聴してまわっているのだけど、じゃあ金がないってことの悲惨さを知ってんのかと言われれば、月末給料日前20円、学費だって自分で払って過ごした貧乏学生時代があったけれど、家族っていうセーフティネットが最後に構えている安堵が俺にはあったわけで、八方ふさがりの金のなさは体験したことがない。だから「お前、そういうこと分かってんの?」と言われれば、想像が足りていない部分があるのだと思う。
ただ、それは言うなら、お金がある/ないの問題というよりは、社会としてどうやってセーフティネットを張り巡らせるのか、今では自己責任の名のもとに削れという風潮に曝されている生活保護をどう考えていくのかとか、そういう問題に直結しているのだと思う。それはお金の問題ではあるんだけど、その前提の、優しさだとか思いやりだとかそういうところに直結していることで、世の中の物差しがお金になればなるほどセーフティネットに使われる税金は減らされていくわけで、そういうところもひっくるめてお金だけを物差しにするのはやめたほうがいいと、懲りずに俺は言いたい。
共産主義とか、そういうことではなくて、主義とかに分類してしまうまえの、支え合いの精神というか。ね。
生まれながらに格差があるのはなぜか。運だとか言ってしまうのは簡単すぎるし、「それは人生のスパイスだ」みたいな科白は上から目線で吐かれるものだから好きじゃない。このことを考えると、俺はいつも混乱して、胸の奥がギューっとなって、どうしようもない気分になる。遠い国では少年が今日も銃を取る。素手で石炭を拾う少女がいる。親父に理由も無くぶん殴られている子供や、素質があったって、触れられもせずに凍りついて行く才能がある。それは生まれた場所や周りにいる人間に起因している。本人ではどうにもならない。それを運だとかスパイスだとか、そんな言葉で片付けんなよ!と、自分で書いておいて数行前の言葉に憤怒してしまう。涙が出てくる。どうしようもないけれど、途方に暮れるほど不平等じゃねぇか。だから平等なんてない、と言うのは簡単だけど、そういうどうしようもない不平等を前提にして「平等」とか「フェア」ってなんだろうって考えるのが叡智ってやつなんじゃないかって俺は思う。
あー。青臭い。こういうことを歌ったら、モチーフが「陳腐だ」って書かれたこともあったな。某ヌーザー誌で。アン・クールだって。笑。忘れねえからな。格好良いとか悪いとかじゃねえんだよコノヤロウと、日本語で言えよと、そのレビュアーに一言投げつけてやりたかったけれど、まあ、それは、結局ここで書いてしまったね、勢いで。笑。『マジックディスク』のレビューです。編集長じゃないけど、書いたの。
絶対的な貧困というのが世界にはあって、相対的な貧困というのもこの国にはあって、その問題を俺は把握しきれてはいないのだけど、そんなことを考えながらも、偉い人とかになんだか高級なイタリアンとか食わせてもらってへーこら「ごちそうさまです」だなんて調子こいてて、そのまま都内のアスファルトに埋もれて固まってしまいたい、恥ずかしいとかを通り越して、情けなさみたいな感情にまみれる。なんだこれは、と。で、一瞬、偉い人にその嫌悪を向けそうになるのだけど、大概、偉いとされてる人ってのは、なんだかんだ仕事作ってんだよなと。それに比べて、俺はどうだと、人ひとり雇うようなバイタリティあんのかよ、と、自己嫌悪の沼に入水、いや、入泥する。ううう。
上澄みみたいな場所でホゲホゲしているハゼ。
誰かを救うために曲を書いたことはないけれど(あるとするなら自分自身だ)、『マーチングバンド』という、一切の情熱を持って放ったエールのような曲がどこかに届くのであるならば、そういうハゼ(俺)にもホゲホゲしてていいんかなと、逆に励まされます。それはもう、涙が出るほどに。
闇を照らしてどこまでも 行け
2月1日。