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電車に乗るなり何かトラブルの匂いがした。優先席でジョギング用のキャップを被った俺と同じくらいの歳のオッサン(メガネ)にエグザイルの坊主でないほうのボーカルをハンマーで上から叩いて尺を詰めたような若者が絡んでいる。彼らの対面の席には、乳幼児を抱っこしたお父さんが座っていた。
「だから、普通に謝ればいいんだって」と、ジョギングキャップはベースボールマガジンを読みながら言った。詰めザイルは「うるせーよ」と応酬している。何があったのかは知らないが、詰めザイルが座席に座る際にジョギングキャップのベースボールマガジンか何かに接触するなどして注意をされ、それに対して詰めザイルが反抗というか、そういう言い方ねえんじゃねえかとか、まあ単にムカついたというか、そういう感じなのかなぁと俺は想像した。
うわぁ〜、嫌だなぁ、嫌だなぁ。と、いつものように脳内は稲川淳二のようになったわけれだけれども、しばしの口論の末に繰り出された詰めザイルの科白に車内は静まり返った。つうか、もともと静まり返っていたけど、さらに澄んだ空気が漂ったように思う。
「お前、歳いくつだよ!?」
あー、それ関係ねー。歳は関係ないわー。と、乗客の誰しもが思った。するとやはり、ジョギングは「歳は関係ないだろ」と呆れた顔で応酬した。乗客たちは向いの席の乳幼児も含めて「そうだよね」と心の中で唱えていたに違いない。詰めザイルはたまらずに平日の昼間っから電車でベースボールマガジンを読んでいるけれど、お前は暇なのか、仕事してないのか、というようなことを言い出した。それに対してジョギングは「いや、平日休みもあるから」とか「大きなお世話だよ」と溜め息混じりで、お前は何を言っているのだという顔で返す。ジョギングの醸し出す呆れ顔の「呆れ」感は絶妙で、これ俺もやられたらイラっとするだろうなぁと思うくらいの呆れが表出していて、当然詰めザイルの怒りのツボをその呆れ感が直撃して、車内はややこしく拗れていくのだった。
その拗れの中で飛び出した言葉も凄かった。
「喧嘩しようぜ!」
詰めザイルが放ったこの言葉に、車内は脱力というか、「久々に聞いたわー!!その科白!!!中学以来!!」と乳幼児も含めた乗客は思ったのだけど、ジョギングは「嫌だよ、面倒くせーし」と拒否の姿勢を呆れ感MAXで表す。が、詰めザイルは「喧嘩しようぜ」をそれしか言えないオウムのように繰り返す。それに対してジョギングは「嫌だよ、面倒くせー」を毎度返し、そもさ!せっぱ!みたいな感じになっている。延々、終点までこの調子で行ったらヤバいなと、そう皆思っていたに違いない。そのうちに、もちろん違う科白を使って詰めザイルはなんとかジョギングを喧嘩のテンションまで持って行こうと奮闘するのだけど、ジョギングの怒りに触れる語彙がない。全てを「呆れ」によって打ち返されている。そりゃそうだ、ジョギングはベースボールマガジンを愛読している。打ち返すことに関しては、こだわりがあるだろう。話はいつのまにか次の駅で降りろ、いや降りない、に変わっていた。
そして、騒ぎが収まったはずはないのに、ジョギングはベースボールマガジンに集中し、詰めザイルは激昂していたにも関わらず携帯をいじりだすという奇妙な沈黙が訪れた。詰めザイルはメールで仲間を呼んでいるのか、ツイッターとかをしているのか分からないが、何かを打って読んでいる。俺はこの状況をツイートしたい欲求に駆られていたが、詰めザイルが俺をフォローしていたりすると話がややこしくなって、「喧嘩しようぜ!」と言われるかもしれない。恐ろしいので、iPhoneを弄るのはやめた。そうこうしているうちに、いきなり詰めザイルがガシっとジョギングの首に手を回して締め上げ始めた。「降りるぞ」とスゴんでいる。が、ジョギングの呆れ感は一ミリも減らず、首を極められながらも「やめろよ、面倒くせーし」と最早厭世感まで出て来ているような、そんな感じを乳幼児も感じているのではないかと目をやったら、もう降りてしまったようだった。
首に回した手はジョギングの抵抗というよりは詰めザイルの自発的な意志によって解かれた。乗客はホっとしたと思う。巻き込まれたくないと、皆が全力で思っていたはずだ。すると、詰めザイルはまた降りる降りない問答をジョギングにふっかけ始めた。そして、こう言ったのだった。
「ちとふなで降りろ!」
ち?と?ふ?な? 乗客の半分くらいの脳内にクエスチョンマークが点滅した。「ちとふな」とは何だろう。俺はよく分からんかった。魚類の鮒(ふな)を絡めた方言のような形容詞なのかもしらん、と思った。すると、「次は千歳船橋〜」と車掌のアナウンスが入った。そこで俺は略語なのだということを理解したわけだけど、口喧嘩における「ちとふな」という、柔らかい発語感はどうなのだろうか。どんなに乱暴な言い方をしても「ちとふな」をおどろおどろしく言うことは不可能だと思う。響きが可愛い。デスヴォイスで言っても、なにか柔らかな雰囲気がある。アニメ声優とかに言って欲しい響きがある「ちとふな」には。萌えるという感情が俺はよく分からないが、もしかしたら人生初萌えを体験できるかもしれん、というポテンシャルを感じる。ちとふな。
電車は千歳船橋に着き、詰めザイルは俺に一瞥くれて降りて行った。ジョギングに対する捨て台詞はなかった。そ、そんな、終わり方って、と、乗客は皆思っただろう。なんか、「お疲れーっした」というような、やる気のないバイトからあがるようにして詰めザイルはホームに消えていった。ジョギングも何ごともなかったように、興奮して身体が震えるでもなく、普通にベースボールマガジンを呆れたような顔で熟読している。俺は事態がよく掴めずに、これまでのあらましを全て忘却したような空間に取り残されてしまった。
俺はなんだか納得がいかず、その場で頭を丸めて何本かのラインを剃り込み、ええ感じのグラサンでパキっときめてジョギングに近寄り「喧嘩しようぜ!」と胸ぐらを掴んでみたい、そんな気分になった。1月23日。