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アジカンの新しいアルバム『ランドマーク』に、こういう曲を書いた。
1980
雑誌の上の能面付けろ
袋詰めのポーカーフェイス
真四角でも飾り付けろ
囃し立てろ
今日だけ
ブラウン管越しのギヴミーマネー
出鱈目
プライム・ミニスター
分からないだろうか 死ぬまで
バレてんだぜ
キャピタルモンスター
採点しろよ 悪態つけよ
評論家も能がない
真四角でも飾り付けろ
囃し立てろ 表紙で
チューブアンプ 歪んだギヴミーマネー
猿真似
フェイク・ロックスター
分からないだろうか 死ぬまで
バレてんだぜ ポーズで
右の手にペンを持って
僕らは何を選んだ?
紙クズの束になって
それなら誰のせいだ
震える鼓膜をもって
僕らは誰を選んだ?
耳も目も 手で塞いだんだ
もう何十年も
これは投票について歌った曲なのだけど、そんなことを思い返しながら選挙へ。結局、選んできたのは俺らだし、選んでこなかったのも俺らだ。政治家の話だけではなくて、例えば有機栽培の米や野菜だって、丁寧に仕込まれた純米吟醸の美味い酒だって、家畜や人間の排泄物から再生されるエネルギーだって、選択=投票(あるいは購買)しなければ、残らない。普及しない。そういう日々の選択は紛れもなく投票で、それは一票で、それらが積み上がって社会になる。俺たちは、日々、選んでいる。昨日今日のことではないし、死ぬまで延々続いていくことなのだと思う。
投票権付きCDによってAKB48のセンターが決まるように、(とはいえ、そんなに単純明快ではないけれど)いろんな分野で「センター」、「主流」と言い換えたほうがいいのかな、それが日々の俺たちの投票によって揺れ動いている。ということを日々の生活の中で意識するのは大事なことだと思う。
ちゃんと選んでいきたいな、と思った。その選択の積み重ねは過去になっていく。僕らはいつも、過去から学ぶ。現在は選択する瞬間に立ち現れて、即刻過去として積み上げられる。じゃあ、未来ってなんなんだろうか。上手に言葉にできない。だけども、例えば良い音でギターを鳴らしたいと思って新しいギターアンプを買うという行為の中に、未来って概念が混じっているように感じる。まだ鳴っていないけれど、そのアンプを買おうとしている俺の中で、予感されている近い将来がある。だから、やっぱり、選ぶって行為の中に未来は孕まれていて、それが上手に取り出せるのかってことは今後の俺の行為にかかってくるわけだけど、確実に、強かに、未来とは選ぶことの中にあるのだと思うのです。
だから、変わらないといけないのは、いつだって選ぶ側。そんなことを考えている。12月16日。