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金沢。21世紀美術館はお気に入りの場所のひとつ。毎度、開催内容をよく調べもしないで行く。前回来たときには杉本博司さんの『歴史の歴史』展が行われていて、それにとても感銘を受けた。今回もプラっと行った。
美術館における混雑がとても苦手なので、俺は開館の時間を狙って21世紀美術館に行った。が、それが裏目。実は開館直前こそ、その開館を待ちわびる早起きの高齢者たちでチケット売り場及び入場口はごった返していて、やってもうたと、自分の選択が誤りであったことを後悔した。
会場では『ソンエリュミエール、そして叡智』という現代美術の展覧会が催されていた。
現代美術は難しい。なぜかと言えば、それは文脈を読まないといけない、つまり、どうしてこういう作品になったんやろかと、そうやって辿っていかないといけないからだ。なんか良いわぁ、という感覚も芸術を観賞するときには無視できない感覚だけれども、それだけで片付けてしまうと理解できない。だから、まあ、静かに、いろいろな感覚を開放しながら考えもして、作品に触れる。そういう己の行為も含めて、成り立っている芸術だと俺は思っている。まあ、観念的である、と言える。ただ絵がうまい!とかいうもんではないというか。現代美術の、その態度が、正しいか正しくないかというのは知らん。ただ、絵がうまい!フォルムが美しい!という芸術性もやはり否定できない、というか、そういう原始的な美しさは、圧倒的な場合が多いので。言葉を圧倒する。速度が速い。そういった意味では、言葉を必要とする芸術一般は、感覚だけのものより少しスピードが遅い。俺はそう考えている。
こちらの準備が足りなくて意味(つうか文脈も)を理解できないものもあるし、本格的に無意味なものもある。無意味が目的のものもあるかもしれない。中にはゴミみたいなもんもあると思う。だけれども、それを脊髄反射的に「分からん」という言葉で片付けてしまうのは避けたいといつも思っていて、自分の身の程というか、そういう物差しについても考えながら、作者の意図なんかを探ってみる。想像してみる。なるほどなぁとか思っていても、作者からしてみれば全くのお門違い、帰れ!このカスという状況に陥っていることもあるのかもしれない。だけども、俺はこういうふうにして芸術作品を観賞するのが、どうやら好きらしい。元来面倒なことばかり考えている性格なので、その面倒なところが幸いしているのかもしれない。
会場では、家族連れや集団で観光に来た高齢者の団体が口々に感想を述べあっていた。うるせえな、と俺は思う瞬間もあった。そういうことは心の中でやって欲しい、と、申し訳ないが思った。だけれども、上手に歩くペースを調節して、良い感じに空いてる感を演出して、観賞した。入口付近の混雑には冷やっとしたけど、ゆっくりと観ることができて良かった。
いろいろなひとがよく撮影しているプールには行かなかった。何度も来ているし、混んでいるので、よしとした。
公演は無事に終了。新潟、金沢の北陸シリーズ、どちらも良い夜だった。
終演後は喜多君の友人が新潟公演で差し入れてくれた『菊水 純米大吟醸』を飲んだ。ものすごく美味かった。角がなくて軽やかだった。スルスルと飲めた。金沢の魚介たちがとても美味しかった。俺は北陸が好きだ、お米万歳、酵母菌万歳、お魚万歳、おばんざい万歳、そんな気分で夜は更けていった。10月21日。