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どうしてこんなことになってしまうんだろう?ということは案外多い。
例えば、復興予算。毎日新聞や東京新聞の報道によれば、東日本大震災の復興へと充てられるはずの国家予算が、例えば、沖縄の国道整備や国税庁の耐震化工事、核融合エネルギーの研究費に使われたという。企業の設備投資を国が負担する事業の約3000億円のうち、被災地3県に支出された額は全体の1割未満だという。
そのうちのすべてが不要だったとは思わないし、間接的に被災地域の支援になっている予算もあるのだとは思う。だけれども、どう考えても使われ方がおかしいと思われる用途があるのは否定できない。予算を要求する国家公務員たちは、全国でも選りすぐりの優秀な人材ではないのか。そういう人たちが、どうして我々の税金をまともに使ってくれないのか。まだまだ、津波の被害を受けた地域が元通りになったわけはない。仮設住宅で暮らしている方も沢山いる。立ち入りすら禁止されている町がある。本当に腹が立って腹が立って仕方ない。もう、この内側で渦巻く憤怒をどうして良いものやら、日々、自分自身に困惑している。
東日本大震災という大きな出来事を前にして、そこからの復興を掲げる予算についてもまともに使えないひとたち(政治家たちも含む)に、本当にこの国の予算の使用方法を任せられるのだろうか。各省庁の金の引っ張り合いゲームみたいにしないで欲しい。全ての官僚や国家公務員たちが悪人だとはまったく思わないけれど、ならば、善良な官僚や国家公務員たちが組織として、どうしてこういった予算の使い方をしてしまうのか、その優秀な頭脳を持って分析して欲しい。本当の賢さとは何か考えてみて欲しい。
遡れば年金問題。これは役人たちが運用とかこつけた投機などでスってしまった。阿呆か、と思う。誰も責任を取っていないし、何より、誰に責任があるのかよく分からない仕組みになっているようにも感じる。それは年金の問題だけではなくて、今回の復興予算の用途に関しても同様だろう。誰か特別な悪人がいるわけではなくて(いるかもしれないが)、責任の所在なく誰がどう考えてもおかしいのではないかということが行われている。
呆れ果ててしまう。涙すら出てくる。屈辱的だとすら思う。「悪いヤツ」を特定できるならば石でも投げつけてやりたい。
でも、いないんだ、そういう「悪いヤツ」の代表なんて。「ちゃんとやって欲しい」としか言えない。でも、その「ちゃんとやって欲しい」と伝える場所がない。伝える場所があっても、彼らは「ちゃんとやっている」と反論するかもしれない。事実、そういう反論が報道では見受けられる。居酒屋で、楽屋で、道端で、この憤怒を友人と話し合っても浮かばれない。伝わらない。官僚や国家公務員は選挙では選べない。怒りのやり場がない。ならば町で、省庁前で声を上げようか。それを「奇特」と呼ぶのは誰か。俺たち自身だ。これが自縄自縛でなくて何だというのだ。
いい加減、官僚たちも頑張っているとは擁護できなくなってきている。現状に対する鬱憤をスケープゴートのようにぶつけるつもりはない。だけれども、今回の件は見過ごせない。心の奥底の、その最深部からいろいろな感情が溢れ出してくる。怒りを通り越して悲しいとすら思う。10月15日。