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昼飯を食おうと街なかをフラフラと歩いていると、なぜか飲食店が一店舗も見当たらない、飲食店不毛の地みたいな場所に紛れ込んでしまうことがよくある。江戸時代とかに疫病が流行って、そこに流れ着いたどこぞの高級な僧侶が「ここいら一帯で飲食を生業としてはならぬ...」というような予言をした、とか、理由はよく分からんが、どうしてそういった飲食店の全くない区画があるのかが不思議だ。条例とかで規制されているのかもしれない。
そういう区画に紛れ込んだ場合、歩けど歩けど食い物にありつけない状況のなか「美味いものを食べたい」という気持ちを「なんでもいいから早く食いたい」という気持ちが追い越してしまい、ひとまず次に何か飲食店があったら入店しよう!というような謎のルールを心の中に打ち立ててしまって、ショボいラーメン屋などに迷い込んで後悔する、というのがいつもの俺のパターンだ。大概、ラーメン屋と謳ってはいるもののカレーやらおでんやらポテサラやら居酒屋風の酒のアテやら何でもメニューがあり、店の外には「うまい!」とか「絶品!」みたいなノボリが立っている。立っているというか閉店後も立ち続けている。ノボリを仕舞っている気配がない。そういう店を普通だったらスルーできるのだけど、空腹感というのは恐ろしい。昼時にも関わらず、店主がテレビでヒルナンデスなどをひとりで観ているというシュチュエーションが最凶で最悪、すぐに逃げたほうが良いのだが、大概目が合ってしまう。で、席に座るハメになってしまう。俺は基本的に気が小さい。
それとは別に、飲食店が林立する繁華街の中には、どうしてこのような一等地にこのような店が?というような佇まいの店がたまにある。その小汚さだったら周辺の飲食店との競争に負けるのは必定と思わしき定食屋、蕎麦屋、中華料理屋、などが以外にも太々しく生き残っているところに出くわすと、ふふん、ここは余程美味くて安価、知る人ぞ知る名店なのだな、などと勘ぐってしまう。で、止せばいいのに、こういう小汚い店の本当の魅力に気づかない通行人は阿呆なのであって、俺クラスの散歩師になると近隣住民がこの店を長年に渡って愛していることくらいはどんなに落ちぶれた外観を装うとも分かってしまうのだ、というような手前勝手な優越感がムクムクと膨らんでくる。そして、吸い込まれるように入店するのだ。
で、そういう場合、大概、美味しくない。持ち家だから、みたいな、なんか継いじゃった、みたいな、家賃払わなくていいのでいくらでも惰性で続けられる、というような店であることが多い。大体、9割方そういう店だ。だけども、毎度、奇蹟の一割にかけてしまう。今度こそ、今度こそ、そういう思いで、胴元が儲かると分かり切っているのに一攫千金を夢見てギャンブル通いをしてしまうような心境で、俺は昼飯を食う店選びを失敗し続けている。
悲しい。10月10日。