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日馬富士(はるまふじ)が横綱に推挙された。
これはとっても嬉しい。横綱がふたりになることで、11月の九州場所が持りあがることは必至。これだけでも大相撲ファンにとっては嬉しいことなのだけど、俺個人としては、というかお前の個人的なブログに書いてるのだからそんな「俺個人として」みたいな断りは自己弁護の類であって書かんでよろしいという意見もあるだろうけれど、俺は日馬富士が好きだ。相撲好きならば皆知っていることで、ここに書くまでもないのだけど、大関になる前は安馬(あま)という四股名だった日馬富士。なんという四股名だ。と思っていた。安い馬だよ、本気で。
やす・い【安い】
1.他に比べて、また普通より値段が低い。安価である。
2.価値がない。軽々しい。
3.心がおだやかである。落ち着いている。
4.(「やすくない」の形で)男女の間が親密なさま。また、それをひやかしていう語。
5.責任がない。気楽である。
(大辞泉から引用)
うむ。やっぱり、あんまりだよなぁと思う。3番の意味であったとしても、心の奥底に荒ぶる魂を抱いて裸でぶつかり合うという生業であるわけで、あまり落ち着いてしまっても仕方ない。俺が相撲部屋に入門したとして、現在の日馬富士の活躍を知れば嬉しいとさえ思うだろうけど、安い馬なんていう四股名を付けられたら凹んでしまうと思う。親方、俺のこと嫌いなのかなって思うかもしれない。もしかしたら、こちらの不勉強で、安馬という四股名には何か特別な伝統のようなものがあったら申し訳ないけれど、まあ、なんかちょっと安馬本人も悔しいと内心に抱えているかもしれないと想像して、そういう感情移入を勝手に行って、両国で相撲仲間たちと麦酒や清酒を煽りながら「安い馬はあんまりですよね。ナニクソー!っつって活躍して欲しいですなー。安馬〜〜〜!!!!!」とか絶叫しながら、応援していた。安馬は身長こそ低くはないけれど、線が細く軽量の力士なことも安馬の安馬感に拍車をかけ、俺元来の妄想癖にも火が入っていろいろなことを想像した。モンゴルから遠く離れた日本で、言語も習慣もまったく違うなか一生懸命に稽古、日本語の習得に取り組むダワーミャミーン・ビャンバドルジ。先輩からの厳しいシゴきもあっただろう。耐えた。鍛えた。途中で日本語を覚えてきて「安い馬ってどういうことだろか」と思ったかもしれない。アマ!アマ!そう呼ばれる度におれはプロだ!と思ったかもしれない。同郷のドルゴルスレン・ダグワドルジ(朝青龍)は大活躍中だった。ドルジ!ドルジ!俺も一応ドルジなんだけどな、と内に秘めていたかも分からん。チクショウ。見返してやる。そう思っていたかどうかは知らないけれど、気迫というものが表に出るタイプの力士になった。そういうところも好きだ。
ほとんど妄想。だけれど、俺は大相撲というのはそういう裏側を想像して、勝手に楽しむものだと思っている。千秋楽、横綱昇進のかかった同郷力士と対峙する白鵬はどんな気持ちだったんだろか?などと想像してみるのが面白い。そこには勝ち負け以上の何かがあって、ヒョイと横に飛んで舞って叩き込み、ここは勝負の場所じゃやったもん勝ちじゃ10年早いんじゃボケとは言わずにズシリと胸で受け止める。そして大相撲になる。そこに匂い立ついろいろな感情。この人らはお互いの十数年をぶつけ合っているのだと思うと感動しかない。見せ物であり、道がつくのであるから武道でもあり、スポーツの要素もあり、格闘技であり、神事である。ひとことで言えば、大相撲、としか言えない。
そういう有り難いもんを成金のオッサンなどが銀座のママなどを引き連れてヘラヘラ観ている。国会議員なんぞが議員バッジをはずさんとチョボチョボ麦酒なんかをこれまた銀座のママと飲んでいる。なんなんだこれは。狐につままれたような感覚だった。白昼夢のようでもあった。異界だなここはと、初めて両国国技館を訪ねたときに思った。わけの分からんものを観ている興奮。大好きな俺でも全く分からん。異形。尊敬と畏怖。俺たちの語彙では語りきれないほど、サイズの大きな何ものかだ。なのに大して好きでもないヤツらが単純化し分かったような口ぶりで「品格やー」とか「伝統やー」とか「清廉潔白であれー」とか五月蝿いんじゃワイドショー的な精神たちよ。静かにして下さい。石川遼君のラウンドを守るキャディーのような感覚で、俺は指を一本立てて分厚い唇に添え、シーっと喧しいひとらに言いたい。それでも喧しい場合は、人差し指を中指に変更したい。
こんなライトな文体で大相撲を語っていいものかって言うこと自体には迷いがある。好きだから。なんでもそうだけど、ほんの一歩二歩対象に近づいて、ほんのちょっとの想像力をそこにプラスしたら、面白くなる。見え方が変わる。それをしないで、分からんのはお前の説明が悪いからやー!!みたいなのは恥ずかしい。分からんのはお前が原因だ。ペラッペラにして、表面をツルッツルにして、そういうもんだと思い込んでるのはお前だし、俺自身だ。トゥルットゥルの吸い付きたくなるような美肌を顕微鏡でみたらそこには顔ダニが居て、そこには顔ダニのドラマがあるかもしれん。ドラマみたいなもんを巻き起こすほど知能的な機能を顔ダニは持ち合わせていないかもしれないけれど、まあなんか、好きなひとにはたまらん顔ダニの生態みたいなもんがそこにはあるだろう。
長くなったが、感動している。九州場所までは、頑張っていられると思う。横綱となった日馬富士の土俵入り。泣いてしまうかも分からん。ヘラヘラ麦酒のみながら観るかも分からん。楽しみだ。9月24日。