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アルバム『ランドマーク』の曲目が発表になりました。常々、この日記やツイッターで情報をダダ漏れさせている私ですが、こうやって正式な情報がリリースされていくことで、作品が世に出ることを強く実感します。早く、誰かに聴いて欲しい、そして感想を聞きたい、率直にそう思っています。
今回のアルバムはCDとレコードがセットになったものが発売されます。僕らからすると、このCDとレコードのセット、それにMICTH IKEDAさんが撮影した写真と、セントラル67の木村さんがデザインしたブックレットが付いて、パッケージとしての『ランドマーク』だと考えています。『ランドマーク』完全版というか。レコードとCDでは最終行程であるマスタリングという作業(リスニング環境での音の聴こえ方を調整する作業)が別なので、演奏は同じものですが、音色が全く違います。
どうしてCDとレコードのセットなのか?ということに答える前に、まずはメディアと音楽の話から。
例えば、どうしてCDはほぼ一律約3000円という値段なのか(少なくともSONYでは一部例外を除いて一律です)。これには長年疑問を持っていました。演奏する人間も、使っているスタジオも、労力から技術まで、何から何まで違う力学によって創られている音楽が、CDという器に入ると同じ値段になってしまうのか。あるいは、同じ値段にされてしまうのか。
例えば、iTunesやその他のダウンロードサイトで、様々なジャンルの様々なミュージシャンによる、様々な楽曲がほぼ一定の価格設定によって並列にされてしまうのは何故か。
CDと価格設定の成り立ちについては詳しく知りませんが、現在において、この理由を説明できる言葉があるのか。その言葉をレーベル側は持っているのか。あるとするならば「予算の管理がしやすいから」と収益性や利便性が語られるか、「そういう決まりなので」という思考のない冷徹な事務処理が待っているのか、どちらかなのかなと想像しています。
100円ショップと何が違うのか。やや言葉選びが乱暴かもしれないけれど、そういう疑問があります。
一方で、ミュージシャンはコピーを売っているわけです。無自覚な人も多いのですが、欲しい人がいればいくらでもコピーできるという、マスター音源のコピーなんです。それを個人所有の機器でコピーされないように、法整備からメディアの機能から、やっきになって労力を使っている。その矛盾に、ミュージシャンたちは鈍感なんです。コピーを売っているのに、コピーするな、と言っています。なんなんだ、これは、と。ずっと考えてきたわけです。
ただの工業製品じゃないかと率直に思うわけです。
もちろん、そんなつもりで音楽を作っている人はいません。私の周りには皆無です。ただ、工業製品的な性格が膨れ上がっているのも事実です。もちろん、抗っている人たちもいます。自分たちの作品はブックレットやCDも含めてアートワークなんだという考えを持って、単なる工業製品であることが様々な場所で拒まれています。それについては素晴らしいと思います。
商品であることは、自分の楽曲を売って生きていくことを決めたのですから、抗うもなにもありません。ただ、自分たちの作った音楽が、ある意味で記号化されて、どれでも3000円なのでと売られていくことには、いつしか強い抵抗感を持つようになりました。
まずは価格がある、貨幣価値があり、それが絶対で、すべてその価値で計ることができるのだ。この物差しは万能なのだ。そういう考え方に屈したくはないと思います。何を大袈裟にという言い方ではありますが、笑、突き詰めていくとそういうことです。金があるからよこせと、金で何でも買えると、だから金回りを良くするためのシステムと同化せよ、と。そういうことを強要されている気分になります。
これはあくまで、最後の、CDとかレコードとかMP3とか、メディアに入れられて売られていくときのことなので、誤解なく。音楽の制作の現場は、少なくとも私が参加している場所は音楽への愛と情熱で溢れています。そういうスタッフにも恵まれています。音楽を聴いてもらうために努力してくれるスタッフたちも、同じく。レコードショップの現場にも、もちろん沢山の音楽を愛する人たちがいます。欧米のCDショップがボコボコ潰れるなか、日本でそうならないのは、メディア以前に音楽が大切にされているということを表していると、私は思います。
ただ、一貫して、どうにも手強いシステムというのがあります。このシステムが「決まっていることなので」などという常套句で同化を求めてきます。
一律3000円なら、それは金勘定は楽でしょう。予算についての考え方も、いくらか合理化できそうなことは、あまり金勘定が得意ではない私でも分ります。
少なくとも、音楽を納める器については自分たちで選びたい。
本来、それは当たり前のことなのかもしれません。
僕らが世の中に出るということは、音楽がCDに納められることだという時期が長く続いていました。もちろん、ライブはいつでも最も重要な活動のひとつではありましたが、録音という行為も同じように大切な表現の場でした。CD−R登場前夜は、テープでした。自費で作るには、それしかなかった。CDでのリリースはある種の憧れでした。
技術革新によって、現在では無数の選択肢があります。タダでネットにアップすることも可能です。選ぶことができるのだから、選ばなければならないのです。惰性でジャケットを作るわけにはいかないのです。何らかのパッケージに納めるならば、意志があるべきだと思います。少なくとも、自分のやることにおいては。
そう考えて作ったのが前作の『マジックディスク』です。CDならではの魅力について、皆で考えました。
今回はレコードです。
何に抗いたいのか、何を選びたいのかは、ここまでの文中に書けたと思います。ただし、相変わらず、CD+レコードであっても、価格設定に対しては、SONYのシステムに従うしかありませんでした。それならそれで、僕たちは最高のジャケットとブックレットを用意しようと、そう考えました。
繰り返しますが、CDとレコードで音が違います。(そして、レコードは、一枚一枚、厳密に言えば音が違います。違いが分るかは別として、その性質上、違ってしまいます。)
ポップミュージックの考え方からは逸脱してしまっていることも、理解しています。限定盤だなんて、聴く人間を選ぶのか!と思う人もいると思います。軽音楽風情が何を高尚ぶって、と、自分でも思います。笑。僕らとしても、入り口を狭めたり、聴く人を選ぼうだなんてことは考えていません。断固として。
むしろ、皆に選んで欲しいと思っています。音楽はリスナーのものです。本当ならば、僕らの作品はiTunesにも並べられたって良いと思うし、並べて欲しいと思います。そういう中で、今回のようなレコード+CDという作品を作ることに、重きを置きたい。そんなふうに考えます。
過渡期なんです。
音楽をどう聴くか、というところが大元にあります。それは聴く側の選択であり、権利です。どう考えても、最も聴かれるであろう可能性を持ったメディアを、ポップミュージックは選んで、いや、無選択に選択して、発信します。聴き方はリスナーのものなんです。
最後にこの長文をひっくり返すような言葉を選べば、単純に私がレコードを好きだからかもしれない。笑。あの面倒くさい、A面B面をひっくりかえす作業や、指紋がつかないように取り出すことや、そういうことに対するフェティシズムかもしれない。変態かもしれない。笑。
でも、音楽愛みたいなものだなと思うのです。僕が聴いているのは商品ではなくて、音楽なのです(この場合は僕という一人称が似合う)。
CDにだってそういう瞬間、たくさん感じてきました。でも今は、段々と、入れ物としての役割が強くなってしまった。PCにスロットするための入れ物。もちろん、そうではない人がたくさんいるのも知っています。
新しいアジカンのアルバム『ランドマーク』は、CDの音も、レコードの音も、どちらもそれに相応しいように、集中して選びました。どちらも最高と胸を張って言えます。
ここまで書いて、最初に何を書いたのかよく思い出せないのですが、最後まで読んでくれてありがとうございます。こういう面倒くさいことを日夜考えています。アホなんです。
音楽が好きなのです。