NO NUKES 2012に寄せて
カテゴリ:日記

 

坂本龍一さんからのお誘いを受けて、この夏、ASIAN KUNG-FU GENERATIONは『NO NUKES 2012』というフェスティバルに出演します。

 

記者会見に同席したことの影響もあって、ツイッターでは心ない言葉も飛んで来ました。でもそれは、震災前の日記で「原子力発電について考えよう」という内容の記事を書いたときにもありましたので、継続的に「だったら電気を使わないでフェスをやれ!」というようなことを言い出すひとの数は、あまり変わっていないように思います。それでも、福島第一原発の事故の影響で、はっきりと原子力発電に対する言論や意見表明を行うことへのハードルが下がりました。ただし、まだ、実名で、しかも職場や仲間内でといった場合、なかなか発言しづらい空気も残存しているように感じます。これは何も原発のことに限ってはいません。何かについて意見したり、議論をすること自体を「ウザイ」とか「ダサい」というように処理する空気は、どこにいってもあるのではないでしょうか。

 

さまざまな誤解があるでしょうから、ここでもう一度、私の思っていることをこの日記に書きたいと思います。長文になると思います。

 

『NO NUKES』と言っても、例えば「反原発」や「脱原発」、「反核」や「非核」など、その言葉が表そうとしているイメージは様々です。極端な比喩を言えば、「人間」と言ってもいろいろな人がいるように、『NO NUKES』にだっていろいろあります。だからまず、ある一定の方向を向いてはいるが、意見の細部にいたるまで全く同じというわけではないことを前提として下さい。たったひとつの言葉にイメージを集約して=一般化して考えないで下さい。(他にも一般化の悪い例としては、東京電力の中にも真剣にいろいろな業務に携わっている人もいます。それを「東電=悪」として経営責任ではなくて個人攻撃にしてしまうのも問題だと思います。)

 

私が原子力発電について疑問を持ち始めたのは、2011年の震災直前の日記にある通り、使用済み核燃料の問題が源泉です。現在、1万4千トンの使用済み核燃料が日本国内にはあって、それは原子炉を稼働すればどんどん増えていくものです。そして、この使用済み核燃料というのは、青森県の六ヶ所村で再処理されて、リサイクルされる予定だったんですね。福井県にある『もんじゅ』というプルトニウムを燃料にした高速増殖炉使われる予定でした。ご存知の通り、この高速増殖炉という技術は商業化に成功していません。要は使う場所がなかった。なので、普通の原子炉で使うことになりました。福島第一原発の3号機で使われていたMOX燃料というヤツですね。再処理して取り出したプルトニウムを混ぜた燃料棒を使います。ここまでは、まあ、使用済み燃料って結構多いなくらいの感想ですよね。核燃料のリサイクル!なんて素晴らしい技術!と大学生のときは私も思っていました。

 

 

(ツアー中に見学に行った際の写真です。)

 

ただ、六ヶ所村の再処理施設は、まだ稼働していません。ここがまず、ひとつ目の問題ですね。国内の設備ではリサイクルさせる目処がたっていないということです。稼働したとしても、高レベルの放射性廃棄物が施設から出るということを忘れてはいけません。近づいたら即死するレベルです。熱をさまして、ガラスやコンクリートで固めて地層処分するということになっていましたが、埋める場所は決まっていません。埋めるまでに30〜50年保管することになっていますが、その時間を考えると気が遠くなります。埋めた後の管理は、10万年とも言われています。人類の歴史よりも長い期間に渡って管理の必要があるとされています。

 

もうこのあたりで、脱原発を達成しようがしまいが、どうしようもない負の遺産を獲得してしまっていることに呆然としますよね。

 

私たちの生活の利便性のために産み出されている危険な物質が、どう考えてもコストパフォーマンスに見合わないくらいの時間をかけて、我々が死んだ後の世代にのしかかるというわけです。悪名高い年金制度よりもマズいだろうことは考えれば分かります。分かっていながら、何世代も先にその解決を無言で託そうとしていることに問題があると私は思っています。いくらなんでもエゴイズムが過ぎるのではないかと。それは個人としてではなくて、時代として。

 

倫理感の問題なので、このあたりは色々な考えがあるかもしれませんね。それでも、私は、何か傲慢な感じがします。借金を孫が返すと思ってサラ金に通うようなものです。

 

「だから原発即止めろ!」と言いたいわけではありません(使い続けるならば、安全性や危機管理について、見直すべきだと強く思いますが)。このエネルギーを使わなくていい社会ってどんなだろう?と考えなくてはならないと思うのです。それは自分の生活について考えてみることでもありますから、「ミュージシャンは電気ばっかり使いやがって」というツッコミはあながち間違いではないと思っています。ただ、「脱原発」という意見を表明するな!という言葉を発するためにこの文言を採用するひとは、間違っていると思います。ちょっと、極端。

 

火力発電にだって問題はあります。諸説ありますが、CO2の問題がありますね。それから、エネルギー自体が抱えている問題もあります。エネルギー資源を持っている国や地域は栄えますから。長崎に軍艦島という炭坑の島があったんですが、そこは浅瀬に湧いた石炭によって、無人の島が世界一の人口密度の光り輝くエネルギー産業の島になりました。ただし、石油の台頭によって、現在は無人島です。はっきりと廃墟。日本中の炭坑の町の現在を考えてみて下さい。エネルギー産業とうのは、もともとそういうものです。原発の町も、脱原発うんぬんではなく、ウランなどが枯渇すれば同じ道をたどるかもしれません。もともと、産業時代がそういうリスクを持っているということです。

 

 

(こちらもツアーの際に撮影)

 

長くなってしまいました。

 

要は、私は、スピードはどうあれ、この負の遺産の蓄積を止めるべく、エネルギーはシフトさせていくべきだと思っています。全てを電気にするわけではなく、熱なども含めて、持続可能な、再生可能なエネルギーの割合を増やしていく社会を希求したい。太陽熱や風力、バイオマス、地熱、水力、波力、いろいろな分野で研究が進んでいることでしょう。原子力発電につぎ込まれていた資金がそちらに流れれば、目覚ましい成果も上がるかもしれません。(同時に、放射性廃棄物の処理の問題や研究にはお金をかけるべきだと思っています。)

 

もしかしたら、原子力発電の最稼働も必要な局面が遠くない将来にやってくるかもしれません(これについては、リスク管理や責任の所在などについて議論される必要があると思いますし、現在の政府のやり方はどう考えても性急だと感じます)。 ただ、大きな矢印の向きとしては『NO NUKES』だろうと。そちらに向かって行くのが良いはずだと思っています。私はそう思う。

 

そういうわけで、フェスティバルに参加します。

 

この問題がマルかバツかのクイズのように扱われず、専門的なことは専門家に任せて意見を聞き、私たちは私たちで日々の生活から感じること、思ったこと、そういうことを自由に意見できるようになることが、望ましいと思います。『NO NUKES』という一見過激な言葉を旗印にしていますが、『THINK』だったり『TALK』という意味もそこに付け加えられたらと思います。

 

何より、原発が止まったとしても、全く解決しない問題なのだと私は思っています。使用済み燃料棒と放射性廃棄物の処理方法が確立されるまで、私たちはその危険性からは逃れられないのです。そういうものを取り扱っているのが、原子力発電なのだということを、ずっと考えています。震災の前からです。

 

この問題に部外者はいません。

 

一切の情熱で書き上げました。誤字、脱字ありましたら、すみません。

 

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