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大相撲はスポーツではないと私は思っている。厳密に言うと、スポーツ性はあっても完全な「スポーツ」ではないということ。
例えば、相撲「道」という言葉で分かる通り、武道の性質を持っている。現在の柔道がスポーツ化されて、ポイント制になりブルーの柔道着になってしまったことを思えば、大相撲がスポーツ化してしまうこととはどういうことなのか、少しは想像がつくのではないか。柔道の話に戻せば、世界的にはスポーツ化してしまっても、日本各地の柔道場で「礼儀」を重点的に教えていることは変わっていないと思う。
そして、大相撲は神事だと言われてる。五穀豊穣や天下太平を願った儀式の性質も持っている。要は祭りなのだ。土俵場には厳かな空気も存在するが、観ている側は酒を飲んだりして騒いでいる。そのくせ、正々堂々としていない取り組みや立ち合いには「卑怯者!」なんていう野次が飛んだりする。そのあたりの、なんともいえない空気も魅力なのだ。
そして、見せ物の側面もあると思う。巨漢の男たちが半裸でぶつかり合うのだから、非日常的な感触が多分にある。もう、非日常の塊なのだ。はっきり言えば、この非日常性が私にとって一番の魅力だといっても言い過ぎではない。世の中の音楽ファンがミック・ジャガーに、キース・リチャーズに、ボブ・ディランに、ギャラガー兄弟に、ライブ会場で非日常にブっ飛ばされるのを望むように。
TVで観ているときには、そのスポーツ性(主に勝敗や技術の部分)を楽しんでいるところもあるけれど、やはり西洋的な「スポーツ」ではない「道」の精神を頭の真ん中に据えて楽しんでいる。勝ち負けではないところに面白さがたくさんある。
まあ、どれだけ書いても、その魅力に迫れないというか、うまく言語化できない部分もある。そういうところが魅力でもあるのでややこしい。
それを何年も前からマスコミが追いかけて、極めて現代的な潔癖性と多罰的な態度で記事にされるものだから、たまったものではない。無粋だと思う。私もそれほど分かっていないかもしれないけれど、分かってないなら放っておいてくれと思う。
東洋のもんを、西洋のものさしではからないでくれよと思う。
ここはアメリカでもヨーロッパでもない。
大相撲を殺さないで。
(今場所は盛り上がっていて嬉しいです。鶴竜が素晴らしいですね。)