「芸術の類の一切は、その軸足を平和の中に置いている」
反響が大きい。
本当にありがとう。
私も自分で書いておいて、「本当にそうか?」と、あれこれ思いを巡らせている。
混沌や殺伐や、ある種の狂気や、私が最初に書いたような負のエネルギーのまっただ中から、美しいモノが生まれることは多い。
というか、自分の中から出てくるメロディや何かも(美しいかどうかは別として)、源流のひとつはそこに直結している。
そしてその流れはもちろん、世界中の至る所と繋がっている。それが海の向こうの戦場だとしても。
皆が言うように、戦場の一瞬の平穏に、誰かの鼻歌が響く瞬間があるかもしれない。
誰かが教えてくれたように、厳しい言論統制の中、命がけで紡がれた文学は存在するのでしょう。
絶望を誰かに伝えたくて吐き出された言葉や旋律が空気を振動させることもあるだろう。
でも、これらは他者との関わりを前提とされている。もしくは、それを深く求めている。
ベクトルは正の方向だと思う。
そういう意味も込めたつもりだけれど、私の一文には沢山の注釈が必要で、正直に言えば、書いたことを少し後悔している。
でも、こうして沢山のことを考える機会をもらった。
自分の書いた文言の美醜によって、沢山のレスポンスがある。
足りなかったり、変に飛び出ていたりすると、それ以上の反応があって驚く。これは毎回決まってそうだ。
そして反省したり、考え直したりする。
駄文かもしれないけれど、削除はしないでおきたいと思う。
そして、常々考えたいと思う。「どういうこと?」と。
例えば、ムンバイの物乞いの少年。
彼は生まれながらに孤児で、ギャングによって目を焼かれている。
そのほうが喜捨が集まるからだ。
もちろんそのほとんどはギャングたちが少年から巻き上げている。
それでも少年は、そうする以外に生きる術がない。
芸術や表現の類が彼を救うことはあるだろうか。
(彼は自分のことを不幸だなんて思っていないかもしれないけれど)
鑑賞できることも、表現できることも、やはり圧倒的に恵まれている環境下でしか成立しないと私は思う。
道具も有無も、たとえば字の読み書きも。
世の中には、まだまだ自分では想像のつかない物事が沢山あるのだと思う。
だから、考えていると、良く分からなくなってしまう。
そしていつもこんがらがって、同じところを行ったり来たりしている。
今日は本当に素晴らしい新曲が出来た。
今から詩を書こうと思う。