ひねくれている
カテゴリ:日記
昨日の私の日記には、どこかトゲがある。

こういう書き方をすると倍になって返ってくる。これはもう内容がどうあれ、絶対にそうなる。

にも関わらず、一向に表現が上手にならない私。



歴史が好きなひとが「殺し合い」に興味があってそれを好んでいるわけではないということはもちろん分かっているけれど、私の表現が悪かったと思う。

否定したいわけではないので、すみません。



ただ私みたいなひねくれた人間は「関ヶ原に一体どれくらいの死体が転がってたんだろう?」とか、「そら内蔵とかもドバーっと…」とかいうグロい想像をしてしまう。

そして、そういうことって、時代が遡るにつれて真っ平にならされているように思ってしまうというか。とても記号的な情報になっていくというような気がするし。年号と出来事みたいなね。

沖縄だったら、石碑に夥しいほどの人の名前が刻まれていて、そこから想像できることって沢山あると思うのだけど、時代背景とかが全く違うので同じ目線で語るのは間違いだと承知の上でも、ここにある想像みたいなものは「真っ平」にならされた中なんじゃないかというか。

もちろん、別の視点からロマンを感じるひとがいても良いと思う。

でも私みたいな視点も存在して良いと思う。単純に恐ろしいなと思うひとも。



人間の中には野生のなごりなのか、誰しもに暴力欲求はあると思う。

そいうものが想像以上に露になった時代もあるだろうけれど、いろいろな過程を経て、それをどうにかコントロールしていこうと、そういう方向に人類が向かっているということを信じたい。

音楽や文学や芸術、スポーツもこういう要素を含んでいると私は思うし、こういうものによって我々の中にある根源的な欲求は形を変えて、平和とかそういう言葉ではなくて、新しいエネルギーに変換されるべきだと思う。



そして、同じ意味合いを持った石碑がたてられ続けないようにするためにはどうしたらいいのか、考えるべきだと思う。

そして話し合われるべきだと思うよ。そこかしこで。

「平和ボケ」とか揶揄される世代だけれど、多くの犠牲のうえにこの「平和ボケ」と呼ばれる時代があって、だからこそ「平和ボケ」だなんて言ってくれるなと私は思うのだけど、そういう場所から考えられることは沢山あると思う。

上手く書けないけれど。



でも、こんなことを偉そうに書いても、私の生活だって半径5メートルの中でのドロドロが存在するし、いつだってそういうことを考えていられるわけでもない。身の回りのことで手一杯なときももちろんある。

だからとても難しい。

でもどこかで、身の回りのドロドロと世界のどこかのドロドロは繋がっていると思う。



何を言いたいのか良く分からなくなってきた。

ここに思っていることや感じていることの全てを書き記す技量は私にはない。



言葉というのはとても難しい。

私の言うことが正しいなんて理由はどこにもない。正しいとも思っていない。間違っていることがあったら、それを学びたい。

ロックミュージシャンの戯言なのだ、こんなものは。



ただ、愛とか正義とか神様の名のもとに人々が殺し合うことが決して良いことではないというのは確かだ。

確かであることを願いたい。



長文、失礼しました。
2009-06-26 1245948120
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