政治家とか偉い人が使うカタカナ英語って、なんだか僕らを煙に巻くための呪文のようだね。
コンセンサスは合意だぜ。意見の一致だぜ。
日本語のほうが短いし、言いやすいよね。
でも、外来語を飲み込んでしまうことも、日本語のひとつの魅力だと思うな。
しれっと、自分のものにしてしまう。
コンビニだとか、ダンプカーだとか。カステラだってそうだね。
戦時中はポケットのことを物入れと言わされたと、昔、中学校の教頭先生が言ってたな。
ポケットはポケットのほうが良いよね。
言葉は面白い。
形は変わる。
「ナントカで候」なんて今では誰も言わないし、古文と現代文でこれほどの差があるっていうのに、いつの時代も「言葉が乱れている」と嘆く人がいる。
そう考えるとなんだか可笑しいね。
言葉は面白い。
意味も変わって行く。
「間違った日本語の使い方」みたいな番組をたまに見かけるけれど、多分、言葉に関しては、間違われ続けたらそれが正解になる。その言葉の意味になる。
多分、言葉がもともとあったものではないからだね。人が生み出したものだから、人の手によって変えられる。
観念的な言葉は、絶対的な存在ではないからね。
辞書で言葉を引いてみると、もちろんその言葉の意味を表すために他の言葉がそこには書かれている。
で、その言葉の意味を表すためには他の言葉が他のページに必要で、それが延々繰り返されて辞書は最終的にあの形に落ち着いている。
つまり、あれは本の形をした大きな輪なんだな。
そう考えると、不思議な気分になる。
言葉の意味を言葉で表す限り、堂々巡りということだから。
だからその言葉の本当の意味っていうのは、言葉ではまったく言い当てることが出来ないってことなのかもしれない。
私は一体、どの言葉の意味を最初につかんで、その輪の中に入ったのだろう。
なんだかとてもぼんやりしているもののように思えてしまう。
多分、真ん中に芯はない。
多分、逆。
イメージや感覚を貼って、貼って、貼って、なんとか形になっている。保っている。
貼られるものが変わって、当然見え方が変わる。
毎日、皆で貼り続けている。
見た目があまりにも変わったので呼び方も変えてみる。
そうやって形が変わる。
100年後の日本語はどんなんだろうね。
我々の現代文が、いつか古典とか古文とか呼ばれる日も来るのだろうね。
そんなことを夜中に考えてみる。
もう寝よう。