犬と猫について
カテゴリ:日記

 

 友人を通じて、「犬や猫の殺処分に反対する署名」への賛同を求められました。全文を読んで、署名することにしました。

 

 犬や猫の殺処分の問題の深刻さを知ったのは最近のことで、連載用に三味線のことを調べているうちに、三味線の皮は猫皮だということを知り、さらには練習用が犬皮だということを知り、ということは「生類憐れみの令」の頃はどうしてただかしん、現在はどうしてるだかしん、などと静岡弁丸出しの興味が立ち上がったことがきっかけです。

 

 なんと、平成19年度とずいぶん前の内閣府のデータですけれど、犬は約10万頭、猫は約20万頭がその年に殺処分されたそうです。NPO団体のサイトに掲示されていました。グラフを見ると犬は1970年代の年間100万頭からぐんぐん数を減らしていますが、猫は80年代後半から横ばいです。100万頭を殺していた時代があったということにも驚きますが、私が署名したサイトによれば年間15万頭の犬猫が現在でも殺処分されているとのことでした。人間に置き換えると、その残酷さが少し身近になるのではないでしょうか。

 

 まあ、でも、こういう署名サイトに対する警戒心もよく分かります。署名してどうなるの?っていう疑問も、なんとなく想像できます。論旨が私とピッタリではない、というような清潔感が立ち上がるひとがいるだろうこともまた、想像できます。

 

 が、俺は署名しました。誰に賛同を求めるでもなく、俺自身の判断で、署名しました。例えば、誰かに「どうかしてる」と言われても、これは俺が決めたことです。なんというか、すべての疑問や無力感、違和感などを抱えながら、見なかったことにしてスルーという選択肢が、やっぱり俺の中にはありません。

 

 こんなものないほうが良いに決まっている、そう自分が思っている、けれども別に明日どこかの省庁や議員さんなんかに掛け合うような活動を始めるわけでもない、殺処分されそうな犬や猫のシェルターなどを運営して彼らを救うわけでもない、そういう行動力も時間もない、なのに署名サイトなどで情報を発信しているひとの行動を黙ってスルーする、というのは俺には無理です。後ろめたさでたまたなくなります。むしろ一筆くらいで申し訳ないと思います。

 

 思えば、動物とのつながりの強い家で育ちました。俺の父親は「レース鳩の飼育」という特異な趣味を持っているので、その延長線なのか、昔から犬とかチャボとか兎とか、いろいろな動物を飼育してきました。逆に野良猫、狐、イタチの類は鳩の天敵として追いはらい続けてきました(嫌いというわけではありません)。田舎の野良猫は凶暴なんですよ。笑。

 

 小学校二年生の時にダックスフントのリリーが死んで、目が腫れるほど泣きました。フィラリアとかいう病気でした。その後はエルというビーグルがそこいらの雑種犬と後尾して作った子犬をもらってきて、エムという名前をつけて育てました。エムはどんな犬種が父親だったのかわかりませんが、母方のビーグルと血と思わしきは耳のみで、存外に巨大に育ち、散歩をするのも困難なくらいパワフルでした。散歩というよりは人間が引きずられているといった感じだったでしょうか。そのエムも俺が大学生の時に亡くなって、その夏に帰省したところ枕元に化けて出て、俺を部屋中引き摺り回しました。夢ではなかったと思います。

 

 その後で、子犬時代に虐められたのが原因で著しく臆病なミニチュアダックスのルーが実家に来ました。俺は年に一回か二回くらいしか実家に戻りませんが、彼女は俺が帰ると、夜中に布団の中に勝手に入って来て鼻をペロペロなめました。クサッ!っと飛び起きると、ルーでした。おばあさんになるまで生きて、彼女は亡くなりました。現在もアッシュというダックスが居て、そいつは阿呆なので、実家に帰ると俺に噛み付いてきます。俺はアッシュが苦手です。

 

 現在、俺は猛烈に「犬と一緒に暮らしたい」という願望を持っていますが、2004年くらいの初詣でむちゃんこ可愛いミニ柴に噛まれて、そのギャップが衝撃で、ほとんどトラウマになってしまって、犬が怖くて飼えません。住環境の制限もあります。また、仕事柄、家を空けることが多いという問題もあります。ということで、犬のぬいぐるみなどを妄想的に愛でて、欲求を満たしています(実話)。

 

 逆に猫は気分の良し悪しがはっきりと表出するので、気持ちがいいヤツらだなぁと思うようになりました。

 

 かなり脱線しましたね。

 

 どうして行くのがいいんでしょうね。俺が「犬を飼ってみたい」と思うところに、殺処分15万頭の源泉があるのか、もっと別のところなのか、頭を抱えます。繁華街のペットショップの前で、ガラスケースに子犬が入れられているのを見たりすると、なんとも言えない気分になりますが、自分が抱えいる「犬を飼育してみたい」という気持ちが少なからずペットショップの存在を担保しているのではないかと、そういう考えが立ち上がります。

 

 犬や猫、イルカ、クジラ、牛、豚、馬、などなど。俺はどんどん連想して、頭の中で話が膨らんでいくタイプなので、いろいろ混乱してきます。肉屋はよくて、ペットショップに嫌悪を感じる自分にも疑問を持っているし、炬燵で鍋料理を食べながら膝で猫を愛でるなんていうことも、まあ、「命」とかにフォーカスしちゃうと、なにが違うんだろかという矛盾が立ち上がるんですけれど、俺は牛や豚は完全に食べ物と見做していて、犬や猫は擬人的に扱っているので仕方ないということにして、あんまり難しく考えないように普段はしています。とはいえ、何年間か、自分では殺せない四つ足の哺乳類を食べるのをやめていた時期がありました。

 

 犬や猫、馬、イルカやクジラを食べるとそれぞれ烈火のように怒るひと(あるいは悲しむ)がいますが、俺はどれについても残酷だと思うし、どれについても食べるのならば良いんじゃないかとも思うんです。人類は食べてきたんですから。なんだって食べてきました。北米とかにいた巨大な哺乳類とか、人類が到達した時期に一気に絶滅しているそうですから、そういうのもほとんど食べちゃったんだと考えています。他の動物を殺戮しまくって、生き延びてきたんです。

 

 でも、犬や猫を食べれるかと聞かれば、俺は食べないと死ぬという環境でなければ食べないですけれども。存在として「可愛い」ですもん。食べない理由がそんなことなのかよ、という疑問もありますが、食べない理由はそれでいいんじゃないかとも思います。イルカも食べられないし、猿も無理だと思います。

 

 なんかグダグダと、やっぱり一言では語れない塊が自分の中にありますね。混沌とした思いが在る。でも、なんというか、こういうことすら感じずに、スルーをして生きては行けないなと思います。自分とは現在直結していない問題を知ったとき、関わりがないと思ってしまえばそれまでですけれど、どこかに接点があって、考え始めるといろいろな問題に波及してしまって、混乱してしまう。でも、俺はそうやって、未解決の想いを未解決のまま抱えても良いんじゃないかと思います。とりあえず、解決したようなふりをして、見なかったことにして、生きて行くよりは。

 

 すべてを当事者として考えたら、パンクしてしまうこともあるでしょうけれど。かく言う俺は、昨日、牛豚混合の合挽き肉のハンバーグを食べました。その口で、犬猫の殺処分に反対の弁を述べることに少しの恥ずかしさもない、なんてことはないんですけれど、ほぼ無目的に、愛玩を目的に繁殖させた(あるいは繁殖してしまった)15万頭の犬や猫が殺処分されているのは酷いと俺は率直に思います。殺処分に「反対」します。

 

 簡単に言うなという人もいるでしょう。でも、俺はアウトプットである「犬猫を15万頭も殺している」というファクト(事実)に、「NO」とか「反対」とか簡単に言えないでどうするんだと思います。そんなこと、ないほうが良い。そしてそこから、「ではどうするのか」という複雑な問題が立ち上がるのですが、それを目の前にして、ちゃんと頭を抱えて行くしか、解決方法がない。で、お前のすることが署名ってのはどうなのよっていうツッコミも、もちろん自分に投げかけて、凹みます。

 

 どうしたらいいんですかね。

 

 

 なにこの写真って感じですけれど、「#end殺処分JAPAN」のハッシュタグでTwitterで検索してみてください。グーグル先生で調べたら、同じような活動をされている団体が他にもたくさんあるようでした。すべてのサイトにリンクを貼れなくて申し訳ないですけれども...。

 

 別に俺が馬鹿にされるのは平気なので、こういう問題が周知されて、解決されることを願います。いや、実際にナイーブ(英語では馬鹿という意味です)なのですが、俺。

2015-12-13 1449962880
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