音楽と値段について思うこと
カテゴリ:日記

 

 夜中に音楽とその値段についてあれこれツイッターに書いた。だけども、まあ140字ずつのカード数枚では自分の言いたいことは言い表せないなぁとか思う。やっぱり言葉ってのは読み手がどう読むかっていうのが大切なので、言いたいことが断片になってしまうツイッターは当たり前だけど全体性を捕らえにくいというか、「莫迦」って言ったあとに「でも愛してる」って呟いたとしても「莫迦」だけが無尽蔵に拡散していくというようなことが起こるので、怖い。なので、長文で書きたいことは長文で書ける場所に書くのが良いんだなと、当たり前なんだけど、そう思う。長文で書くと、今度は長すぎて読んでもらえないとか、誤読されるっていう悩みもあるんだけど。

 

 音楽と入れ物(メディア)の話はずっと考えている。まあ、これは自分の作ったものを何に入れるのがベストかっていうのもあるし、いちリスナーとしてもどんな形態で聴きたいのかっていう好みもあって、興味はつきない。PCに音源を取り込めるようになったことで、CDの中に入っているのはデータであるということが浮き彫りになってしまった。CDもマスター音源のデジタルコピーだもんね。ようは複製。複製をプラスティックの円盤に入れて売って、それを複製(コピー)すんなっていう、ああつまり、レコード会社の権利って「私らだけがコピーできます」って意味なんだと改めて確認。アナログレコードだって、複製だもんなぁ。型でビニールに押しつけた音楽というか(もちろん、ちゃんと血の通った工程を踏んでいるけどね)。

 

 まあ、そういうことは今回の主題ではないので割愛。言いたいこと沢山あるけど、やめておく。

 

 で、何でCDって3000円なんだろうという疑問はずっとあったけど、iTunesでも1曲200円とか250円とか、なんで均一価格なんだろうなぁとか思う。いろいろな視点で考え方が違うと思うんだけど、ミュージシャンの立場からすると、能力も労力も質も違うものが100円ショップみたいな感じで売られているなんてワシらは工業製品か!というような気持ちにもなる。リスナー俺の感覚としては、CD3000円は高い!と思うけれど、iTunesの1曲いくらとかは価格体系がなるべく単純なほうが買いやすいなぁとか思ったりもする。うーむ。レコード会社は、単純にCDの価格が均一のほうが予算の管理がしやすいんだと思う。iTunesに対しては、アップルめ!アンタらガメついな!と大きなレコード会社は思っているに違いない。笑

 

 ここまでが前置き。

 

 それで、じゃあ、音楽って一体いくらなのが「正しい」んだろうか?なんてことを考えてみる。

 

 まあ、はっきり言って、分からんよね。笑。

 

 作ってる側としては、1曲の価値がいくらかなんて分からない。現状のCD価格の相場とかが全く情報として存在しない状態でアルバム1枚の値段を決めよ!と言われた場合、いくらかだなんてズバリと金額で答えられないと思う。

 

 音楽の成り立ちを、歴史を遡って考えてみれば、もともと値段なんてなかったと思うのね。歌がうまいとか、踊りがうまいとか、そういうのは尊敬とか畏怖とかの対象で、ある種の地位(宗教的儀礼の中で)に繋がったと思うのだけど、違うかしら。有り難がられるというか。ね。で、教会とか王族とか貴族とかをパトロンとした時代がヨーロッパではあったし、そういう権威とは離れて街を渡り歩いて歌ったりする詩人とかも出て来たと。最初に1曲に値段がついたのは何だろう、楽譜かな。まだポップミュージックになる前か。で、そういう根源的な音楽の発生から、俺らが知りうる西洋音楽の歴史が始まって、それから随分と経って、音楽を録音して売るようになったのって1920年くらいから。せいぜい100年ってことだね、うわー、短い。で、それによってポップミュージックはまあヤイノヤイノあって現代のように産業化したわけだ。

 

 複製したってのは(CDとかレコードなど)、俺らが音楽を身近なものにすることにおいて、大きな役割を担ったんだと思う。あとはラジオか。まあ、いつしかテレビも。

 

 複製の入れ物としては、レコード、カセット、CD、MDなんかがあって、今はハードディスクとかメモリとかになろうとしてる。入れ物自体は音楽を売買するときに付属しないようにする流れがあって、複製された楽曲をインターネットを通してやりとりする流れが主流になりつつある。これはもう揺り戻ったりしないはず。もう入れ物自体が役割を終えようとしているってこと。まあ、「入れ物」であるCDとかレコードとかに愛着を持って扱う場合には、残っていくと思うけれど、macbookからCDドライブがなくなっていく時代だから、あらゆるソフトはネット経由でやりとりされる時代に向かってるんだと思う。

 

 入れ物があったお陰で、メディアは肉体だから、手渡しでやりとりしないといけなかったんだよね。概念の話ではなくて、実際に。例えば、工場でプレスして、レーベルの倉庫やCDショップの店頭や、いろいろな場所で人間の手を介さないといけなくて、それ自体が経済活動になった。そうやってどんどん音楽は身近なものになっていったんだと思う。ミュージシャンも潤った。だけども、なんだか段々、音楽の値段なんじゃなくて、これは入れ物(まあ、端的にCDのこと)の価格なんじゃないかと感じるような逆転がおきてしまうようになった。俺だけかもしれないけれど...。3000円の入れ物が決まっていて、それでリリースすると大体このくらいの売上げが目標で予算がこれだけ...、というような流れになってしまった部分もある。全部とは言わないけれど。工業製品に性格が近いような、そんな感じ。値段がほぼ一律っていうのも、そんな雰囲気を助長しているのかもしれない。

 

 で、あたりを見回してみると、俺らもそれに加担している自戒はあるけれど、特典とか、なんかいろいろなやり方で売上げを上げようとするんだけど、やっぱり作品本体ではなくて入れ物の付属を増やすってかたちになってしまう。これはもう、入れ物代とそのお得感なんだなぁとか思わざるを得ないし、逆に、CDってそのくらいの特典を付けないとネットに勝てなくなってしまったんだなとも思う。あるいは、俺らがもっと面白いものを創らないといけないってことでもあるのかな。でも、それCDで?って疑問は個人的にあるなぁ。

 

 それで、音楽と値段の話に戻るけれど、リスナーもミュージシャンも、絶対的な楽曲の価格って決められないと思うんだよね。だから、本当は金銭のやり取りなんじゃなくて、敬意とか感動とか、そういう感情のようなものをやり取りしていると思うわけ、リスナーとミュージシャンは。そこを忘れて、貨幣価値だけで話をしようとするから、お互いに疑心暗鬼というか、やりとりがギクシャクしているようにも思う。最近は。まずはお金意外のところに価値があるんだってところが、案外忘れられている。お金では買えないものなんだね、本来。

 

 だから、本当はレーベルなりレコード会社なり、ダウンロードのサーバの提供者なりが正しく仲介者になるべきなんだよね。そこで初めて、お金の話をする人たちが必要というか。CDとジャガイモ、音源ファイルと牛肉を物々交換できないから貨幣があるわけなので、誰かが音楽に値段をつけないといけない。で、これって本当に難しいから、制作費を考えていくらって計算になると思うんだけど、そこでまたお金の話をする側ががめつく取ってんじゃないかっていう疑念もみんなが持ってしまったのはあるよね。そのあたりは、まあ、リスナーがメジャーレコード会社とかを疑いすぎなところもあると思うけれど、一方で、それはどうなのよって思うこともあるよね。うわー、雑っていうか。酷いこともあるだろうし。

 

 うーん。

 

 だからつまり、何が言いたいかっていうと、音楽に金銭的な価値をつけるっているのはとっても難しくて、本来不可能なんだってことと、やりとりしているのは「お金」じゃないんだよってことを、皆で意識していくのが、ポップミュージックにとっての良い流れだと思うのね。だから、権利!権利!って流れも、本当は真逆で、皆でシェアしていく時代になるのが理想だと思う。そのシェアの仕方にもリスペクトがないといけないと思うけどね。

 

 これは音楽の現場だけの話じゃないんだよなぁ。確かにお金は必要なんだけど、すべてをお金という物差しで測っているとカッサカサになってしまう。そこのバランス、とっても大事。最終的に、金では買えないってことが、とっても大事。

 

 長いし、意味不明かな。昔から、言っていることが良くわからないと言われる。笑。ツイッターでやると、アイツは莫迦なんだなと思われることもある。思っていること、考えていること、半分も言葉にできない。著作権を知らんのか!とも言われる。そういうヤツにはうるせー!とも思う。読んでくれてありがとう。1月7日。

 

2013-01-07 1357518480
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